犬養毅の葬儀(出所:Wikipedia

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 5.15事件――近代国家として歩み始めた日本に、立憲政治が根付こうかという矢先に起きた軍事クーデター。犠牲となった「犬養毅」の名前を覚えてはいても、「なぜ犬養が死ななければならなかったのか」を説明できる人は案外少ないのではないだろうか。林新氏・堀川惠子氏は膨大な資料をひも解き、評伝『狼の義 新・犬養木堂伝』で当時の世相、背景、時代の空気とともに犬養毅の生涯を描き出した。知られざる5.15事件の実態、驚愕の事実とは?(JBpress)

(※)本稿は『狼の義 新・犬養木堂伝』(林新・堀川惠子著、角川書店)の一部を抜粋・再編集したものです。

犬養毅の右腕、小島一雄という男

 その男は「財閥王」と呼ばれた。東京の経堂駅から数分の住宅街に「財閥王」の家はある。朽ちかけた屋根は端々がめくれ、門柱にぶらさがる木戸は風に揺れる。少し離れて見れば、家全体が西側に傾きかけてもいる。アメリカ軍の空襲からは辛うじて焼け残ったが、古屋の老朽ぶりは年々凄みを増すばかりだ。

 応接間は、玄関を上がってすぐの8畳間。「財閥王」は、たいがい床の間を背に座っている。物臭い顔に懐手、瘦(や)せこけた身体に擦り切れた単衣(ひとえ)は、まるで禅僧のよう。清貧といえば響きはよいが、貧乏は底なし。80歳を超えた今も、どこに出かけるにも特大のコウモリ傘を杖(つえ)代わりに、じっと満員電車に揺られている。

「財閥王」の名は、古島一雄(こじまかずお)。その徹底した貧乏暮らしに、仲間たちは彼のことをそう呼んだ。1945(昭和20)年8月15日、この国が長く続いた戦争にようやく白旗を上げると、老人の身辺はにわかに慌ただしくなった。

 10月、ラジオの放送で「古島一雄」という名が繰り返し伝えられた時、近所の人たちは「まさか、あのじいさんじゃなかろうな」とささやきあった。

大日本帝国における最上級の正装である「大礼服」姿の犬養毅(Wikipedia