中国に渡ってからの15年間、留学から起業に至るまでの道のりを振り返っている。
【第1回】「中国語ができないと猫柄のタオルを買わされる」(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/48280)
【第2回】「少林寺でいきなりスカウトされた中国語武者修行の旅」(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/48426)
【第3回】「『出口どこ!?』ウイグルの砂漠で死ぬかと思った話」(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/48609)
【第4回】「日本語を学ぶ夜のお姉さん、意欲も服もすごかった」(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/48934)
中国での留学が終わる頃、日本語学校の教師という職を手にして、路頭に迷うことはなくなった。しかし、それで安心したのもつかの間、私生活でも事件は発生したのだった。
“カレー曜日”に起こった事件
今でこそ上海は日本食レストランが山のようにあって、食材やら調味料などもどこでも手に入るようになった。しかし、2000年当時は日本食というのはなかなか貴重だった。そのため、何かの折に日本に戻った際には、いつも調味料やインスタント食品を大量に買い込んで持って帰っていた。
決して高くはない日本語学校の先生の給料では毎日外食というわけにもいかないので、自炊をしていた。野菜や肉など普通の食材は、家の近くにある菜場(市場)で買えば、驚くほど安かった。このときに料理の一通りを覚えられたのは中国留学の成果の1つと言えるかもしれない。
とはいえ、自分で作った和食のような中華のような料理も毎日では飽きてくる。そこで、月に2~3回登場して大活躍するのが、日本から持ってきたカレールーや「すし太郎」だ。準備→授業、準備→授業の繰り返しで疲れ切っていた僕の心を、唯一癒やしてくれるのがカレーとすし太郎だったことを思えば、○ウス食品さんと○谷園さんには感謝してもしきれない。