溶けゆく氷を使っていた大正・昭和の冷蔵庫

変わるキッチン(第15回)~冷やす(後篇)

2015.07.31(Fri) 澁川 祐子
筆者プロフィール&コラム概要

 製氷事業に対する嘉兵衛の取り組みは、まさに執念の賜物である。

 1861(文久元)年、富士山麓の富士川沿いの鰍沢(かじかざわ)に氷池をつくり、約2000個の氷を切り出すことに成功。おが屑を詰めた木箱に入れて清水港まで馬で運び、そこから船で横浜に運んだが、盛夏だったためにほとんどが溶けてしまった。そして、現在の金額にして4億円もの借金を背負ったというのだから、普通ならこの時点でめげてしまってもおかしくない。

 だがその後も、牛乳の販売店を開いたり、初の食肉解体場を開設して牛肉を売り出したり、パンやビスケット、洋酒の販売を手がけたりして事業を広げながら、何度も採氷に挑戦した。諏訪湖、日光、釜石、青森の理川。ところを変えながら5年にわたって試みているが、いずれも失敗。1867(慶応3)年に函館で6度目のチャレンジに臨むが、このときは暖冬に見舞われ、わずかばかりの氷が採れただけだった。

 だが、函館での採氷に可能性を感じたのだろう。時代は明治へと変わった2年後の1869(明治2)年、函館の五稜郭の外堀を借り受け、7度目の採氷に着手した。そしてついに、約500トンの良質な天然氷を切り出し、横浜まで輸送することに成功。最初に挑戦してから実に8年の歳月が流れていた。

病床の福沢諭吉のために作られた日本初の人工氷

 中川嘉兵衛の氷はその後「函館氷」と呼ばれ、瞬く間に評判となった。勢いに乗った嘉兵衛は1871(明治4)年には函館の豊川町に、1873(明治6)年には東京・日本橋の箱崎町に大型の氷室を建設。国内のみならず、清国や朝鮮、シンガポール、インドにまで輸出するようになった。嘉兵衛の成功は新規参入者を生み、各地で天然氷の採氷が盛んになった。こうして明治20年頃まで、天然氷の生産量は増加の一途をたどっていく。

 その一方で、機械による製氷も進んでいた。冷凍技術の幕開けは、1748年にスコットランド人の医師ウィリアム・カレンがグラスコー大学で公開実験して見せた手回しの冷却機とされている。その機械は、ジエチルエーテルが気化する際に周囲の熱を奪って冷却させるという方法を実証したものだった。

 この発明を応用して1834年、今度はアメリカ人の発明家ジェイコブ・パーキンスがエーテルを使った製氷機を発明。1850年にはフランス人のエドモンド・カレーが硫酸と水を使った電気冷蔵庫を開発している。

 では日本はというと、嘉兵衛が採氷に成功した翌年の1870(明治3)年、日本で初めて人工の氷が作られた。きっかけとなったのは、明治を代表する思想家の福沢諭吉だ。

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1974年、神奈川県生まれ。東京都立大学人文学部を卒業後、フリーのライターとして食や工芸・デザインを中心に、読むこと、食べること、暮らすことをテーマとしたインタビューやルポ、書評を執筆。『森正洋の言葉。デザインの言葉。』(ナガオカケンメイ監修、美術出版社)、『最高に美しいうつわ』(SML監修、エクスナレッジ)の取材構成ほか、近著に当連載をまとめた『ニッポン定番メニュー事始め』(彩流社)がある。


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