「関西風」のルーツは東京だった!
花柳界と切り離せないお好み焼きの黎明期

2013.08.16(Fri) 澁川 祐子
筆者プロフィール&コラム概要

 1939(昭和14)年から翌年にかけて連載された高見順の小説『如何なる星の下に』には、東京・浅草で1937(昭和12)年に創業し、現在も営業を続けている「浅草染太郎」をモデルにした「惚太郎」というお好み焼き屋が登場する。小説では、元踊り子の店員が登場し、男女のかけ合いが繰り広げられる。ちなみに浅草花街は、東京でも屈指の花柳界であった。また、大阪では同年、大阪随一の歓楽街である北新地近くに、お好み焼き屋の老舗「以登家」が開店している。

 そして、この屋台からお座敷への変化は、お好み焼きの作り方にも影響を及ぼした。客が自分で焼くなら、「のせ焼き」よりも「混ぜ焼き」の方が簡単である。店にとっても、具をバラバラに出すよりもいっぺんに1つの器で提供したほうが好都合だ。こうして「のせ焼き」から「混ぜ焼き」へと主流が移り変わり、お好み焼きは現在の形にたどりついたのである。

のせ焼きの習慣、いまもそこかしこに

 ここで、なぜ広島風と関西風があるのかという冒頭の疑問に戻ろう。

 まず関西風と言っているが、ここまで述べてきた通り、もともと東京で生まれたものが大阪の地で発展したものだということを断っておきたい。そして、この関西風の「混ぜ焼き」が広まる前に日本は戦争に突入した。

 原爆で痛手を負った広島では、終戦から5年ほど経った1950(昭和25)年頃から、お好み焼き屋の屋台が次々と現れ始める。お好み焼き屋なら、食器が要らず鉄板1つでできるからだ。関西風の「混ぜ焼き」がまだ根づいていなかった広島では、一銭洋食の流れを汲む「のせ焼き」のお好み焼きが作られた。そして、これをさらにボリュームアップさせるために考え出されたのが広島風の「重ね焼き」だったのである。

 1952(昭和27)年には、日本初のお好み焼き専用ソース「オタフクソース」がお好み焼き屋とソース屋の共同開発によって発売される。さらに55(昭和30)年頃には焼きそばとお好み焼きを組み合わせる現在のスタイルが完成。こうして、広島のお好み焼きは独自の道を歩み、昭和50年前後には「広島焼き」として知られるようになっていった。

 考えてみれば、祭りの屋台で売られているお好み焼きは具を生地の上にのせて焼いて、半分に折ったものが多い。あれは、どんどん焼きの名残だったのである。また、今回調べるなかで知ったのだが、神戸や京都、徳島といった地域では「のせ焼き」が現在でも混在している。いまとなっては全国的に「混ぜ焼き」が主流になっているが、歴史の痕跡はあちこちに残っているのだ。

 一方、大阪の関西風お好み焼きは、生地に卵や山芋が混ぜ込まれ、さらに分厚くなっていった。マヨネーズを使うのは、1946(昭和21)年に大阪の玉出で創業した「ぼてぢゅう」が昭和30年頃に考案したものだという。

 洋食屋の名脇役だったソースとキャベツが結びつくことで、子どものおやつから、大人の風流な食べものになり、さらに戦後には空腹を満たすために一品としてボリュームアップしていったお好み焼き。“お好み”で焼けるというその名の通り、この料理は時代の要請に応じて、その姿をさまざまに変えて現在に至っているのだ。

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1974年、神奈川県生まれ。東京都立大学人文学部を卒業後、フリーのライターとして食や工芸・デザインを中心に、読むこと、食べること、暮らすことをテーマとしたインタビューやルポ、書評を執筆。『森正洋の言葉。デザインの言葉。』(ナガオカケンメイ監修、美術出版社)、『最高に美しいうつわ』(SML監修、エクスナレッジ)の取材構成ほか、近著に当連載をまとめた『ニッポン定番メニュー事始め』(彩流社)がある。


食の源流探訪

日本人が日常茶飯としている定番食。あまたある食べものの中で、
なぜそれが定番になり得たのか。どのように日本化されていったのか。
「新・日本食」の源流からの流れを、歴史をひもときながら考察する。