私は、前回の「憲法改正論議を考える(その1)」で「護憲派は、自衛隊合憲論の立場に、公然と転換すべし」と書いた。若干、説明不足だったように思うので、その理由を最初に述べておきたい。

「無防備国家を目指すべし」は非現実的

 護憲派政党の共産党も、社民党も、自衛隊は憲法違反の軍隊だとしている。私が知る限り護憲派の多くの人々は、自衛隊に一種の嫌悪感を抱いている。だから迷彩服姿で市中を行進すると抗議の声が上がる。

 では護憲派の人々は、急迫不正の侵害があったとき、日本をどう防衛するつもりなのだろうか。

 共産党は、以前は国民の自発的抵抗や警察力などを動員して侵略を打ち破る、などとしていたが、さすがに現実的ではないので、今では「存在している自衛隊を国民の安全のために活用する」として、自衛隊活用論の立場に転換している。

 この問題は、護憲派の最大の弱点なのである。隣国には中国や北朝鮮が存在し、一触即発の危険性すらある中で、自衛隊は違憲の軍隊であり、無防備国家を目指すべきだという立場が、いかに無責任であり、非現実的なものであるかは明瞭だからだ。

 そして皮肉なことに、この立場に固執すればするほど、ならば憲法9条を改正して、堂々と軍事力を持てるようにすべきだ、という声をかえって大きくしてしまうのである。

 私が、護憲派に自衛隊合憲論に転換すべきだと迫るのは、その方がはるかに改憲派に対して有効な力を発揮するからだ。

立憲主義からも自衛隊合憲は明瞭

 我が国は言うまでもなく立憲主義の国である。

 では立憲主義とは何か。社会には様々な価値観や生き方が混在している。根本的な価値観の相違もある。宗教のように、そもそも比較不能な価値観、世界観もある。これを1つの価値観に統一しようとすれば、破壊的な激突が発生する。立憲主義の下では、いかなる価値観、世界観を持つかは、各人の自由であることを認める。これは私的領域だからである。しかし、公的な領域は違う。納税の義務、労働の義務、教育の義務などは、いかなる価値観を持っていようと勝手気ままは許されない。

 立憲主義とは、この私的領域と公的領域を区別し、様々な価値観、世界観を持つ人々の共存を図ろうというところに、その神髄がある。