我が国は、明治2(1869)年、北海道開拓使を設置するとともに、明治7(1874)年には、ロシアの侵攻に備えた北辺の守りと北海道の開拓を図るため、屯田兵例則を定めて本格的に足場固めを開始した。翌(1875)年には、樺太千島交換条約を締結し、千島列島全島が日本領土に、また樺太全島がロシア領土になった。

 以後、日露(ソ)間には、さまざまな問題や紛争が生起し、両国関係に影響と変化を与えてきた。そのうち、主要なものは、日清戦争と三国干渉、日露戦争と樺太南半分の獲得、第1次世界大戦とシベリア出兵、満州事変などである。

 これらの細部説明は省略するが、以下、北方領土問題の直接原因となった第2次世界大戦(大東亜戦争)以降の展開について振り返ってみよう。

第2次世界大戦(大東亜戦争)とヤルタ会談

 ソ連(スターリン首相)は、欧州正面を主戦場としていたが、アジアで新たな戦いが始まって東西2正面作戦を強いられることは何としても避けたかったので、日本の動向には重大な関心と注意を払っていた。

 一方、日本は、昭和11(1936)年11月25日、ドイツとの間で、共産「インターナショナル」(いわゆるコミンテルン)による共産主義的破壊に対する防衛協力を目的に「日独防共協定」に調印した。

 本協定は、その後、イタリアが参加して「日独伊防共協定」になったが、1939年、「独ソ不可侵条約」が締結されたため、事実上、失効した。しかし、日本とドイツは再び接近し、「日独伊三国軍事同盟」の締結に発展した。

 その上で、日本とソ連は、昭和16(1941)年4月、「日ソ中立条約」を締結したのであった。

 日本は、昭和16(1941)年12月に真珠湾を攻撃してアメリカとの間で戦端をひらき、大戦はアジア太平洋にまで戦域を拡大した。

 下斗米伸夫著『アジア冷戦史』(中公新書)によると、ソ連は、すでにこの時点で、連合国側の勝利を予測して戦後秩序の構想作りに着手している。

 同(1941)年、英国のイーデン外相は、ソ連の対日参戦を含む同盟協議のためソ連を訪問した。その際、ソ連は、対日参戦は頑なに拒絶したが、日独がもたらした犠牲への賠償と国境線の問題を取り上げた。

 その中で、特に、アジア太平洋において、日本の軍艦が宗谷海峡、クリル(千島)列島、津軽海峡、対馬海峡を封鎖してソ連艦の自由航行を妨げるのは問題であると指摘している。

 翌1942年に入って、ソ連は、欧州・アジアなどの戦後体制に関する外交資料を準備する委員会を設置した。そのアジア構想の中で、対日関係については、南サハリン(樺太)を返還させ、ソ連を太平洋から隔てている千島列島を引き渡すべきことを主張している。

 ソ連は、1943年10月の米英ソ3国外相によるモスクワ会談、11月末の同首脳によるテヘラン会談などを通じて、米国と対日参戦問題を協議し始めていた。そして、1944年12月半ば、ルーズベルト米国大統領からの参戦要請に対し、スターリン首相は、ポーツマス条約で日本領となった南サハリン(樺太)と千島列島を代償として要求した。

 このような過程を経てソ連の対日参戦が決まり、米英ソの3首脳が集まったヤルタ会談で、ソ連の要求が確認されるに至ったのである。

 ヤルタ秘密協定におけるソ連の諸要求は、日本が敗北した後に確実に実行されるとの合意の下、ソ連は対日参戦することになった。