緑色の粉に見る日本の「ものづくり」の原点

日本人と「抹茶愛」(後篇)

2011.09.26(Mon) 漆原 次郎
筆者プロフィール&コラム概要

 なぜ、日本人は抹茶が好きなのか。「日本人の抹茶愛」を探るストーリーは、前篇で明治時代まで進んだ。ここで、日本の抹茶文化は大きな存続の危機を迎えることになる。

 後篇では、近現代における日本の中で抹茶がたどってきた歴史を、引き続き伊藤園中央研究所食品科学研究室の沢村信一室長とともに見ていく。

 ある“策”によって抹茶文化は存続の危機から息を吹き返すことになる。その後は、近現代の科学・技術の発展とともに、新たなステージへと進んでいく。そんな中で成立したのが、和菓子、洋菓子、主食と抹茶の出合いだ。

 日本で数百年にわたって発展してきた抹茶文化には、大きな危機の時代があった。それは明治時代初期のこと。江戸時代まで抹茶を嗜んでいた「武士」という階級が消えてなくなり、茶の湯の風習が急激に廃れようとしていたのだ。

 武士たちに寵愛されてきた茶家の一族「千家」も、多くが財政難に陥った。そうした中、抹茶文化継承のため、あるいは一族存続のために、とある“策”が生まれる。

 お茶の歴史にも詳しい伊藤園中央研究所食品科学研究室の沢村信一室長はこう話す。「女子教育の一貫として、躾(しつけ)や作法を学ぶ中で茶の湯が取り入れられたのです。茶の湯は基本的に男性の世界でした。明治初期に女性に広がったのは劇的な変化でした」

 現代では、花嫁修業の1つとして定着している「茶道と女性」という結び付きは、実は茶の湯文化が廃れゆく中での打開策だったのだ。

 文化の復活・継承に特に力を入れた人物は裏千家の十三代円能斎鉄中(1872~1924)。茶道の基本を身につけるための『小習十六ヶ条』を出版するなどした。

 また、かの福澤諭吉(1834~1901)も『新女大学』の中で、「遊芸は自から女子社会の専有にして、音楽は勿論、茶の湯、挿花、歌、誹諧、書画等の稽古は、家計の許す限り等閑(なおざり)にす可らず」と、女性が茶の湯を学ぶことの重要性を説いている。

 女子教育の一貫として茶の湯が取り入れられ、復活の兆しが見えてきた頃、茶の湯の精神は海外にも広がっていった。ボストン美術館東洋部長だった岡倉天心(1862~1913)が英語で書いた『The Book of Tea』(茶の本)が、米国で大きな反響をよんだのだ。

 「それ(茶道)は、純粋と調和、相互慈善の秘訣、人間関係のロマンチシズムといったものを、じっくりと教え込むものである」。このように綴られた「茶の本」は、海外に日本文化を紹介する格好の機会になった。

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1975年生まれ。神奈川県出身。出版社で8年にわたり理工書の編集をしたあと、フリーランス記者に。科学誌や経済誌などに、医学・医療分野を含む科学技術関連の記事を寄稿。日本科学技術ジャーナリスト会議理事。著書に『日産 驚異の会議』(東洋経済新報社)、『原発と次世代エネルギーの未来がわかる本』(洋泉社)、『模倣品対策の新時代』(発明協会)など。


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