「指定校制度」は、団塊世代入社の69年から73年に、他の国立大学や、関西学院や同志社、上智といった私立大学まで拡大される。さらに、バブル期から92年入社組までの大量採用の期間、キリンはあらゆる大学に門戸を開いた。その結果「指定校制度」は消滅する。
ただ、当時のキリンには、まだその変化が現れてはいなかった。
同質性の強い組織が、必ずしも「悪」ではない。同じカルチャーを共有する組織は、目標に向かって一致団結しやすいという利点もある。
はっきりとした目標があり、それに向けてキャッチアップしていく時代には、組織が一丸となって動くほうが有利だろう。
その一方、同質性の強い組織は、「異才」や「創造的な人材」を排除しがちで、環境の変化に対応するのが苦手だ。意見の対立や衝突を嫌い、反対意見を無視して、最初から結論ありきで物事を進めがちだからだ。
95年当時のキリンは、少なくとも部長以上の幹部はかなり同質性の強い組織だった。50歳以上の男性で、かつ一流大の出身者しかいなかったからだ。
日系メーカーの中では、かつての日産と並んで、高学歴者ばかりが出世する会社だったのである。しかもキリンは、「ラガー」による「シェア6割超」という成功体験を持っていた。
一定の成功を収めた人は、みずから変わることを嫌うものだ。
バブル崩壊直後の95年頃、「この不況は一過性で、いずれ回復する」という言説がまかり通っていた。当時はまだまだ、バブルという「成功体験」を忘れられない経済学者、知識人が多かったのである。
当時のキリン幹部が、「ラガーの売り上げはいずれ回復する」と考えたのも無理はなかった。刻一刻と変わる外部環境への対応ほど、彼らが苦手とするものはなかったからだった。
「ラガー」の生ビール化は、こうしたキリンの体質が生んだ、必然的な出来事だった。
この「苦い経験」に学んだのか、その後のキリンはダイバーシティ(多様性)志向を強めることになっていく。2024年4月現在では、短大卒の女性執行役員も誕生している。
<連載ラインアップ>
■第1回 “聖域”の ラガーをたたき潰す、キリンにラベルのないビールが誕生した理由とは
■第2回 キリンの天才マーケター・前田仁にとって不可欠だった「アイデアの源泉」とは?
■第3回 ぜいたくなビールを「スーパードライ」「ラガー」と同じ価格で、天才マーケター・前田流のこだわりとは
■第4回 「麦汁の一滴は血の一滴」工場の猛反発にもかかわらず、なぜ「一番搾り」は商品化されたのか?
■第5回 「ラガーの生ビール化」で失敗の黒歴史、当時のキリンを覆っていたある組織体質とは?(本稿)
■第6回 窮地のキリンを救った大ヒット発泡酒「淡麗」で、天才・前田が仕掛けたマーケティング戦略とは?(10月9日公開)
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