同質性の強い組織

 本山からキリン社長を引き継いでいた真鍋圭作は、総会屋事件の処理のため身を挺(てい)して奮闘した佐藤安弘を、新しい社長に指名した。佐藤は96年3月、社長に就任する。

 佐藤は主流の営業部門出身ではなく、経理や総務などスタッフ部門出身で、かつ子会社に長く在籍していた。その佐藤の社長就任は抜擢(ばってき)といってよかった。

 医薬品など経営多角化を進める上で、佐藤が適任だったという事情もあるだろう。ただ、真鍋としては、「人気投票キャンペーン」を無視して暴走する営業部門を信用できなかったのかもしれない。

 その上で、総会屋事件に真正面から立ち向かった佐藤の「胆力」を買ったのだろう。

 佐藤は05年9月に、日本経済新聞の名物連載「私の履歴書」に寄稿している。

 連載の23回目によれば、真鍋から次期社長を打診されたのは「1995年11月上旬」だったという。真鍋はトップ人事について当時キリン相談役の本山英世に相談していたようだ。

 その佐藤は、「ラガー」の生ビール化について、02年4月に筆者が取材した際、次のように答えている。

「結果論ですが、最終的に踏み切らざるを得なかった。熱処理ビールのラガーを生にできないのは、キリンに技術力がないからだ、などとも言われたのです…」

 キリンが戦略ミスを犯した「真因」は、社長人事より、もっと深い部分にあったのだろう。

 キリンは戦後を代表する優良企業。そのため、新卒採用でも圧倒的に強い立場にあった。

 長い間、キリンの新卒採用は出身大学で足切りをしていた。いわゆる「指定校制度」である。

 佐藤がキリンに入社したのは58年。当時のキリンは、東大や京大など旧帝大卒、一橋大卒のほか、私立では早慶卒しか採用しなかったという。

 この点について、佐藤は次のように語っていた。

「『指定校制度』により、多様な人材を確保する機会が制限されてしまいました。その結果、同質性の強い企業風土が生まれ、会社の活力が殺(そ)がれた点は否(いな)めません」

 ちなみに佐藤自身は早大商学部卒。キリン初の私大出身社長だった。