そこで彼女はスピードこそが最重要(speed was of the essence)であり、英国をワクチン企業にとって「最高の顧客」にすることでしかワクチン争奪戦に勝てないと考えた。

 彼女はバイオ系スタートアップへのVC投資や契約交渉、ワクチン生産、臨床試験の専門家や元外交官など、経験豊富なプロフェッショナルを集めてチームを立ち上げ、最初の6週間で調達戦略を策定した。

 当時、世界中で開発されていた190以上のワクチン候補のデューデリジェンス(事業調査)を行い、7つのワクチン候補を選び出しポートフォリオを組んだ。成功確率は10~15%と見ていたため、mRNAやウイルスベクターなど異なる種類のワクチン候補を組み合わせたポートフォリオとした。

 同時に、損失が出るのは覚悟の上で製薬企業にとって「最高の顧客」であるべく、製造施設整備のため前払いで資金を拠出した。

 そして国営の国民保険サービス(NHS)とともに全国規模の臨床試験データベース「NHSワクチンレジストリ」を構築した。50万人以上が登録し、そのうち35%が60歳以上というNHSワクチンレジストリは、臨床試験を迅速に進める上で極めて有効に働いた。そしてワクチン候補が臨床試験を通過するたびに拠出額を積み上げていった。

 結果的に、英国はファイザー/ビオンテックのmRNAワクチン購入契約を米国、EU、日本に先駆けて最初に締結し、2020年12月8日、世界でいち早くワクチン接種を開始した。しかもVTFが選定した7つのワクチン候補は、すべてが安全かつ有効なワクチンとして承認された。VCの投資手法を存分に活用したVTFは、ワクチン確保のベストプラクティスとなった。

医薬品生産で進む水平分業

 晴れて医薬品の開発に成功し、上市にこぎ着けても、それで安泰なわけではない。新薬は特許期間が終了すると後発品に置き換わってしまう。研究開発の原資を確保できる期間は限られている。

 半導体業界において水平分業が主流となり、TSMC(台湾積体電路製造)が受託製造で地殻変動を起こしたのと同様に、医薬品業界でもいまや水平分業が主流になりつつあり、受託開発・製造企業が急伸している。

 CMO(Contract Manufacturing Organization:医薬品受託製造機関)やCDMO(Contract Development and Manufacturing Organization:医薬品受託開発製造機関)などと呼ばれる。

 世界トップはスイスのロンザ、第2位は韓国のサムスンバイオロジクスで、両社で世界の医薬品受託製造能力の5割を占める。2021年5月、文在寅大統領とバイデン大統領の米韓首脳会談にあわせ、サムスンバイオは米モデルナと新型コロナ向けmRNAワクチンの受託製造契約を締結、サムスンバイオは10月に韓国でワクチンの出荷を開始した。

<連載ラインアップ>
第1回 日本が経済安全保障戦略で「黒字国」から「赤字国」に転落した3つの構造的理由
第2回 経済社会秩序を守る「経済安全保障」政策の展開は、なぜ政府にとって困難を伴うのか?
第3回 「中国は戦略的競争の相手国」米国が対中強硬路線を鮮明にした経済安全保障上の理由とは?
第4回 コロナ禍やウクライナ侵攻で浮き彫りとなった、サイバー空間における経済安全保障の課題とは?
第5回 国家安全保障の要と言えるエネルギー産業、日本の供給体制はなぜ脆弱なのか
■第6回 英国はなぜ国家間のコロナワクチン争奪戦に勝利し、世界初の接種を実現できたのか(本稿)


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