2024年12月に亡くなったスズキ元社長の鈴木修氏(右)
写真提供:共同通信社

 スズキが2025年11月に発表した速報値によると、同年10月の四輪車の世界生産は30万4917台で、前年同月比6%増となった。このスズキを軽自動車の代名詞にまで引き上げたのが、鈴木修氏である。同氏には「2つの顔」があった。1つは全国に展開する業販店を束ねる「大将」の顔、もう1つは政界の有力者に可愛がられる「人たらし」の顔、いわば「ロビイスト」の顔だ。『軽自動車を作った男』(永井隆著/プレジデント社)から一部を抜粋・再編集し、表と裏から、同氏の人間的魅力に光を当てる。

業販店はなぜスズキを選ぶのか?

軽自動車を作った男』(プレジデント社)

 茨城県ひたちなか市のイソザキが、スバル(当時は富士重工業)のサブディーラー(副代理店)の契約解除を決めたのは2000年のことだった。創業者で社長だった磯﨑孝が同業者から「スバルは軽自動車の生産を、将来やめていくようだ。登録車専門メーカーを目指すらしい」という情報を得たためだった。磯﨑は1947年11月生まれのいわゆる団塊世代。東京の板金塗装会社に勤務後、72年に板金整備業として同社を創業し74年に自動車販売に乗り出す。

 82年には軽自動車販売に特化した第二軽センターをオープンさせる。「軽自動車の時代が来る」という信念をかなり以前から、磯﨑は抱いていたのだ。

 自著『成長の原動力は会社を儲からないようにする』(磯﨑孝著、プレジデント社)には、次のようにある。

「自動車はステータスの象徴でもあるので、人々の目がどうしても見栄えのいい普通乗用車に行きがちなのは当然のことです。しかし、国土が小さく狭い道が多い日本にガソリンを大量に消費する大型の乗用車はいかにもミスマッチです。だから、私はいずれは実用性を踏まえて小回りの利く軽自動車に人気が集まると確信していました。 私の読みは当たったといえそうです」

 スバルの「スコープ店」の看板を外す決断をしたものの、スズキかダイハツか、果たしてどちらを選ぶべきか。磯﨑は即断で、スズキを選択する。理由は、スズキの方が敷居が低いというのか、手っ取り早いと思えたからだ。GMの資本は入ってはいるものの、スズキは鈴木修が率いる独立系であり何事も話が早い。これに対し、ダイハツはトヨタの子会社になり、どこか難しく思えたのだ。