2024年12月に亡くなったスズキ元社長の鈴木修氏
写真提供:共同通信社

 インドの2025年10月の乗用車販売は前年同月比17%増の46万台超。最大手のマルチ・スズキは17万6318台で11%増えた。同社のインド参入の原点は、40年以上前に遡る。1982年3月、国民車構想を掲げるインド政府が日本に調査団を派遣。初動が遅れたスズキは補欠扱いだったが、「1番になれる」インド市場を逃すわけにはいかなかった。『軽自動車を作った男』(永井隆著/プレジデント社)から一部を抜粋・再編集し、インド調査団を説き伏せた鈴木修氏の交渉術に迫る。

自動車メーカーのない国に出れば、一番になれる

軽自動車を作った男』(プレジデント社)

 急きょ社長に就任したとき、鈴木修は考えた。

「日本市場はどこも金太郎飴だ。どの県も1位トヨタさん、2位日産さんである。後発のスズキが、どこかの県で一位を取ろうなどおこがましい。地元の静岡でさえ無理だ。ならば海外に出て、どこかで一番を取ろう。一番を取れば、社員の士気は上がる。しかし、先進国では、スズキが得意な小さな車では勝てない。そうだ、自動車メーカーのない国に出れば、間違いなく一番になれる。単純だ」

 軽自動車トップというセグメント一番には安住せず、あくまでも市場トップを狙った決断だった。

 世の中には市場トップの会社よりも、2位以下の会社の方が圧倒的に数は多い。2位以下は上位企業のキャッチアップを目指し、1位企業は市場拡大を目指す。鈴木修は数少ない1位になりたいと、熱望したのだ。

 鈴木修によれば、「1975年からパキスタンで四輪事業を細々とやっていて、しょっちゅう往来していた」そうだ。75年に、ジムニーの組み立てを、パキスタンで開始したのが、スズキにとって初めての四輪の海外生産だった(その後、政府との合弁パックスズキモーター社を作り、1982年9月から四輪車の生産を開始する)。

 パキスタンに幹部社員が何度も出張しているとき、やはり偶然だが、飛行機の中で「インド政府が国民車構想を持ち、パートナーを募集している」という新聞記事を目にする。