暑い夏が続く。今年(2024年)は酒税改正の影響もあり、ビールの売り上げが好調だ。その中で、単独ブランドでは圧倒的トップをひた走るのが1987年発売の「アサヒスーパードライ」。日本産業史上最大の奇跡を起こした商品だが、この商品を語る上で欠かせないのが、発売当時アサヒビール社長を務めていた樋口廣太郎氏だ。
『ウォークマン』やスマートフォンの登場によって、好きな音楽がいつでもどこでも楽しめる。宅配便を使えば大半の地域に翌日、荷物を届けることもできる──。こんな当たり前の生活は、一昔前には思いも寄らないことでした。それを可能にしたのは、日本企業史に名を刻む経営者の並々ならぬイノベーションへの執念でした。本特集では、日本人のライフスタイルを変えた「変革者たち」の生き様に迫ります。
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「万年3位」が定着していたアサヒビール
この連載ではこれまでに8人の経営者を取り上げてきたが、いずれも創業者もしくは創業家の中興の祖だ。しかし今回の主人公、アサヒビール(現アサヒグループホールディングス)元社長・会長の樋口廣太郎氏(1926─2012年)は違う。
樋口氏は大学を卒業して住友銀行(現三井住友フィナンシャルグループ)に入って副頭取まで昇りつめ、その後、アサヒビールに転じたサラリーマン。このサラリーマン経営者が、日本の産業史上で最大の奇跡を起こしたのだから面白い。
樋口氏の経歴については後編で触れるが、住友銀行副頭取からアサヒビールに転じたのが1986年1月。顧問で入り3月に社長に就任した。その前年のアサヒビールのシェアは9.6%。当時のビール業界の覇者はキリンビールでシェアは61.3%、2位はサッポロビールで19.6%、そして4位はサントリーの9.3%だった。
戦前、アサヒは日本一のビール会社だった。その後戦時政策でサッポロと統合し大日本麦酒となり、戦後、再びアサヒとなる。しかし戦前の勢いは失われ、キリン、サッポロに次ぐ万年3位が定着。しかも年々シェアを落とし続け、サントリーとの差はわずか。1985年には最下位転落が確実視されていた。
しかしこの年、阪神タイガースが38 年ぶりの日本一となる。大阪発祥で阪神応援缶を独占的に販売していたアサヒにとってはこれが神風となり、なんとか3位を死守できた。
メインバンクの住友銀行は、アサヒを支えるために3代続いて社長を送り込んでいた。それでもシェアは下がるばかりで半ばさじを投げており、一時は真剣に他社への身売りを考えていた。樋口氏がやって来た当時のアサヒはそんな状況だった。