約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?
三国志の時代、戦闘では司馬氏が諸葛氏を圧倒したが…
蜀の諸葛亮、呉の諸葛瑾、そして魏の諸葛誕。第6回の記事で、三国志の時代に諸葛一族と司馬一族が三国を股にかけて激突し、最終的に司馬一族が戦争では全面勝利したことを解説しました。三国の統一は、魏の司馬懿の孫である司馬炎が成し遂げたのです。
呉の重臣として活躍した、諸葛瑾の息子の諸葛恪は政治的混乱と敗戦により呉で暗殺され(253年)、諸葛誕の反乱の失敗(258年)とあわせて三国の重臣としての諸葛氏の時代は黄昏時を迎えていきます。
諸葛誕の息子の諸葛静は、司馬一族との衝突の際に呉へ援軍を依頼に行き、そのまま呉の臣下となりました。父の戦死で魏内部の一族は壊滅して、帰る場所を失ったためです。265年には司馬氏への禅譲(天下を譲る)で魏が滅亡し、280年には司馬炎の西晋に呉が敗北します。
280年の司馬炎(西晋)による呉への侵略では、呉に移った諸葛静(諸葛誕の息子)は軍事指揮官として西晋の軍勢と戦っており、諸葛氏と司馬氏は、三国時代の最後まで衝突していたことがわかります。
呉が滅亡し、諸葛静は隠遁。西晋の初代皇帝の司馬炎と敗れた諸葛静は幼馴染であり、幼馴染の二人は皇帝と敗軍の将、父の仇と隠遁者となる皮肉な結末を迎えました。この二人の対比は、三国時代の終焉時の司馬氏と諸葛氏の結末を示しているともいるでしょう。
諸葛氏の血脈は、どこまで生き残ったのか?
ここまでを振り返ると、諸葛氏と司馬氏の戦いは、ほぼ全面的に司馬氏の勝利、諸葛氏の敗北で終わったと判断されるでしょう。しかし、その後は意外な展開が待っていました。ライバルのいなくなった司馬炎(西晋の初代皇帝、司馬懿の孫)は慢心を極め、酒色におぼれていきます。
中国を統一したのち、司馬炎は急速に政治への関心を失い、後継者には暗愚だった司馬衷を選んだことで、王族だった司馬氏同士が抗争を繰り広げる八王の乱が勃発(司馬炎の死のたった1年後の291年)。王族だった司馬氏は、戦闘に北方民族を傭兵として活用したことで、北方民族が華北で勢力を拡大する機会をつくる失敗まで犯します。
この大混乱ののち、匈奴の劉淵によって西晋は打倒され、残っていた司馬一族も大半が掃討されてしまいます。最終的に、南方にいて混乱から距離を保った司馬睿(司馬懿の四男の孫)が江南を中心に東晋を建国。
司馬炎が西晋を建国したのち、27の王族を各地に立てたにも関わらず、司馬一族は内乱と異民族の侵略でほとんどの血筋を失います。司馬懿の嫡流、司馬炎の嫡流も失われたことを考えると、皇帝、皇族となった司馬一族は、最上の権力に登ったことで、かえって壊滅の憂き目にあったといえなくもありません。
一方の諸葛一族は、それぞれ三国の重臣として活躍しながらも、自ら皇帝や王族の地位に登ることがなく、仕えた帝国が滅ぶと戦争や政治抗争から離れた存在となりました。敗北した諸葛静が司馬炎に再び会うことができ、諸葛亮の子孫が後世に残った理由でもあります。
司馬氏については、巨大な成功と欲が達成されたことで、その成功の扱いを誤って一族が壊滅したと理解することもできるのです。