約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?
魏の諸葛誕、蜀の諸葛亮、呉の諸葛瑾の3人
三国志の時代、諸葛氏といえば名家であり、劉備に仕えた蜀の諸葛亮、孫権の呉に仕えた諸葛瑾などがよく知られています。しかし、魏にも諸葛氏の重臣がいました。諸葛亮らの従弟といわれている諸葛誕です。
諸葛誕は、蜀と呉の二人の諸葛氏よりもかなり若く、魏の2代目皇帝、曹叡と3代目の曹芳の時代に活躍した人物です。蜀の諸葛亮は234年に病没、呉の諸葛瑾は241年に死去しています。
諸葛誕は239年に魏国で復職していますので、諸葛亮と諸葛瑾の有名な二人の時代が終わったころに、諸葛誕は魏で要職を得ていったといえます。
252年には、呉と魏の衝突である東興の戦いで、諸葛瑾の息子である諸葛恪と諸葛誕は戦っています。そのときは諸葛恪の奇策に敗れますが、大勝利で傲慢になった諸葛恪は、翌年に呉で暗殺される悲劇を迎えています。呉の諸葛恪は、勝利によって逆に足元を大きくすくわれるような迂闊な人物だったのでしょう。
257年、魏の諸葛誕が司馬氏に反旗をひるがえす
蜀の諸葛亮と最後まで対峙した司馬懿(仲達)は、249年に魏内でクーデーターに成功。曹爽は殺され、曹操の血筋の者はほとんどが消えました。魏の諸葛誕は、司馬一族の専横がますますひどくなる状況を見て、司馬氏との衝突に備えていきます。
魏で司馬昭(仲達の次男)が実権をにぎった255年以降、諸葛誕は軍権を取り上げられる危機にさらされており、257年には追い込まれて打倒司馬氏を掲げて挙兵します。しかし、寿春城に10万の兵士と立て籠もり、呉からも援軍を得たにも関わらず翌258年に敗北。
諸葛誕は、兵士数百人から「諸葛公のために死ぬのだ、心残りはない」といわれるほど人望がありましたが、軍事指揮官としての能力が司馬氏に劣り、みじめな敗死を迎えています。258年の諸葛誕の敗北による死で、三国時代における諸葛氏の活躍は終わりを迎えます。
諸葛氏の人々は天下の三強国それぞれで重臣となる人物を輩出するほどだったのに、司馬氏の軍略にことごとく破れていったのです。