約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?
曹操よりも人気がある?劉備の破天荒ぶり
三国志における主役の一人、劉備。漢の皇室の血筋と言われた彼は、161年に生まれ、221年に60歳で蜀の皇帝になりました。徒手空拳、なにもない境遇から一人の男が一国の皇帝になった瞬間です。
劉備はわらじを売る貧乏な少年期を過ごしました。漢の皇室につながるといってもはるか以前のことで、父は彼が幼いころに亡くなり、母子家庭で生活に苦労した子供時代でした。彼は、たった1つのものを除いて、何一つもっていなかった。それは、彼自身であり、彼の人間としての魅力です。
「口数こそ少なかったが、よく相手をたてて、めったに感情を表すことはなかった。男どうしのつきあいとなると、それを大事にしたので、人々は争って彼に交際を求めた」(書籍『三国志の世界』)
劉備が24歳のころ、黄巾の乱が起こります。劉備は義勇軍を結成して戦いに参加。そのときすでに関羽と張飛は仲間でした。関羽、張飛は、のちに魏軍から「1万の兵に匹敵する」と言われたほどの勇猛な武人です。
若き日の劉備に自分の命運をかけたその他の人物に、簡雍、孫乾、麋竺などがいます。彼らは自らの才能、財産を捧げて劉備を支えました。劉備軍団は黄巾の乱以降、さまざまな陣営に属し、また離れました。しかし、劉備を信じる者たちは一貫して劉備と同じ流浪の道を選び、ともに歩み続けます。
劉備を稀代のトリックスターにした兵法書『六韜』の力
兵法書『六韜(りくとう)』を、中国古典に詳しい人はご存じだと思います。古代周王朝を築いた文王・武王を補佐した太公望という人物が描いたとされる兵法書です。劉備は、『六韜』を読むように息子の劉禅(りゅうぜん)に遺言しています。
では、劉備が愛読した『六韜』は、どんな内容なのでしょうか。
『天下は君主ひとりのものではなく、天下万民のものです。天下の利益を共有しようとすれば天下を手中に収めることができますが、独り占めにしようとすれば天下を失ってしまいます』(書籍『六韜・三略』プレジデント社より)
天下の利益を共有する者が天下を手にする。これは、自分に付き従い、挑戦を乗り越えた者にその成果を惜しまず与えることを意味します。劉備は天下を得ることを目指しますが、賛同者が、劉備の夢と自らを同化できるように仕向けたのではないでしょうか。
『天下を蓋うほどの度量があって、はじめて天下の人々を包容することができるのです。天下を蓋うほどの信義があって、はじめて天下の人々をまとめていくことができるのです。天下を蓋うほどの仁徳があって、はじめて天下の人々に慕われるのです』(同じく『六韜・三略』)
劉備は、相手の肩書や生まれなどで差別をせず、見どころのある人物を君子、勇将として認めて受け入れました。今でいえば、「相手の承認欲求を満たす」人付き合いと対応。満たされない想いや夢を描いていた者たちは、自分の心を満たしてくれる相手である劉備に夢を重ね、彼と同じ道を歩むことに奮い立ったのではないでしょうか。
三国志を勇壮な物語にした、劉備の果敢な生きざま
トリックスター(Trickster)という言葉には、2つの意味があります。1つ目は破壊と創造をもたらす者、物語を展開させていく者という意味。2つ目はペテン師、詐欺師という意味です。前者の「物語を展開させていく者」という意味では、劉備はまちがいなく三国志における最大のトリックスターです。
劉備は、人生の後半から反曹操と漢王朝の復興という大義を掲げて中国大陸を奔走します。曹操に敵対する勢力を糾合した、赤壁の戦い(208年)は曹操、劉備、孫権が登場する時期の三国志のクライマックスであり、劉備は物語の盛り上げ役にふさわしい活躍をします。
破壊と創造、そして物語を展開させていく者として、史実でも三国志演義という物語においても、劉備はトリックスターの役割をこれ以上ないほど果たして人生を駆け抜けました。