左から、朝彦親王、高崎正風

(町田 明広:歴史学者)

八月十八日政変とは?

 文久3年(1863)8月18日、宮中で政変が勃発した。いわゆる、八月十八日政変である。孝明天皇と中川宮(青蓮院宮、朝彦親王、賀陽宮)が画策し、薩摩藩と会津藩が加わって、京都から即時攘夷派の中心であった長州藩と、それと結ぶ三条実美ら過激廷臣らを追放した事件である。

 幕末期には、さまざまな事件や政変が起こり続けた。中央政局においては、慶応3年(1867)12月9日の王政復古クーデターに匹敵する大事件こそ、この八月十八日政変であった。しかし、その実態については、意外と知られていないのではなかろうか。

 この政変の主役は、孝明天皇の意向を十分に熟知していた中川宮と、即時攘夷の推進主体である長州藩に追い詰められた薩摩藩であり、両者はともに朔平門外の変(文久3年5月20日、姉小路公知暗殺)の嫌疑から絶体絶命な状況に追い込まれていた。しかも、即時攘夷派によって画策された大和親征(行幸)が目前に迫っていた。この事態を一挙に打開したのが、八月十八日政変であったのだ。

 今回は、160年という節目を迎えた本政変の背景や経緯を丹念に追いながら、真の首謀者である中川宮と高崎正風に焦点を当て、その実相を4回にわたって明らかにしたい。