悩んだSさんは上級生にこのことを相談したのだが、これが火に油を注ぐ結果となってしまった。上級生に相談したことがいじめの加害者たちに伝わると、「チクった」とさらにいじめがエスカレートする。事態は悪い方へ転がってしまった。

不意のテレビ取材

 次の“事件”は、Sさんが岩手に帰郷した8月に起こった。

 岩手出身の元タカラジェンヌに、戦前・戦中に宝塚をはじめ退団後も舞台・映画で活躍した女優の園井恵子(1913~1945)がいる。1943年公開の『無法松の一生』では主演・坂東妻三郎の相手役を演じ、大いに注目された。

 その園井は45年8月、舞台公演のために訪れた広島市で被爆し、敗戦直後の8月21日に息を引き取った。女優としてさらなる飛躍が期待されていた矢先の死だった。もし生きていれば、その後、日本を代表する女優の一人となっていたかも知れないほどの役者で、その悲劇的死もあって地元・岩手では伝説的人物でもある。

宝塚歌劇時代の園井恵子宝塚歌劇時代の園井恵子(投稿者が出典資料より取り込み, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)

 Sさんが岩手に帰郷した際、ちょうど園井恵子の恒例の法要が予定されていた。地元出身の宝塚音楽学校在校生が帰省しているということで、関係者からSさんに法要への出席依頼があった。これに気持ちよく応じたSさんだったが、会場に着くと、取材にきていた地元のテレビ局にマイクとカメラを向けられた。

 Sさんは「(園井さんのことは)宝塚の先輩として尊敬しています。同郷の後輩をお守りください」と模範的な受け答えをした。この映像はニュースとして流れ、またテレビ局のウェブサイトにもアップされた。

 それが音楽学校の同期生の目に止まったことで、大騒ぎとなった。

 宝塚音楽学校の決まりでは、テレビに出るときには事前に許可を取らなければいけないことになっており、その際の服装(制服着用)や髪形も細かく決められている。ところがSさんはその規則に違反しているとして、音楽学校に戻ると同級生に吊るしあげられたのだ。

 帰省前のSさんは法要に出席する予定はなかったが、岩手に帰ってから支援者の頼みを受けて出席しただけだった。またテレビ局の取材が来ることも知らされておらず、そのため服装や髪形も学校で決められたスタイルではなかった。

 学校にはそのように抗弁したが、Sさんは反省文を提出させられた。そしてこの一件は、後に重大な処分の理由のひとつとされてしまうのだった。

(後編:<15年前の「宝塚音楽学校いじめ事件」、追及できなかった記者の悔恨(2)>に続く。配信先のサイトでご覧になっている場合、下記の関連記事リンクまたは「JBpress」のサイトから記事をお読みください)