黒田は、1840年に薩摩藩の最下級武士の家に生まれる。戊辰戦争では鳥羽伏見から五稜郭まで転戦している。陸軍中将、参議、北海道開拓長官を歴任し、西南戦争では征討参軍として、戦功を立てる。西郷隆盛、大久保利通の死で薩摩派の頭領になり、1888年に伊藤博文の後を受け、2代目の内閣総理大臣に就任した。

第2代総理大臣・黒田清隆(写真:akg-images/アフロ)

 黒田は刀が趣味で、酒を飲みながら刀を抜くなど少しばかりクレイジーなところがあった。だが、時代が時代だ。少し前まで、戦場どころか、いきなり路上で見知らぬ相手に斬りかかっていたわけだから、刀を抜くぐらい大した問題ではない。

 さて、肝心の妻殺しだが証拠はない。恐ろしいのは、それにもかかわらず、「黒田は妻を殺した」とほぼ事実として言い伝えられていることである。

 1878年3月の夜、泥酔して帰宅した黒田は、出迎えが遅いと腹を立て、妻せいを斬殺したと伝えられる。せいは旧幕臣旗本の娘で23歳だった。

揉み消しに動いた?警察の大幹部

 当時38歳の黒田は新政府最高位の参議の一人。黒田による惨殺疑惑を、新聞「団々珍聞」がスッパ抜いたことで世の中は騒然となる。

 辞任は免れぬ情勢だったが、時の最高実力者で同じ薩摩出身の大久保利通が、もみ消しに走る。腹心の大警視の川路利良が自ら黒田夫人の墓を暴いて検視に当たる。川路は掘り起こした後に、辺りをにらみつけながら、「他殺の形跡なし」と報告して一件落着したという。

 川路がこの時、何を思ったかを伝えるものはないが、この頃から日本の政治に「忖度」の文化が垣間見えるのは気のせいだろうか。

 司馬遼太郎の『翔ぶが如く』にも「泥酔してもどった黒田が、ささいなことから妻を斬り、死にいたらしめたらしい」とある。大久保の意を受けた川路が、墓を掘って「他殺の形跡はない」と決めつけたとも書いている。国民的ベストセラー作家の記述も手伝い、令和の今まで黒田が妻を斬り殺したのは間違いないという話が広く普及してしまったわけだ。