早川松山「生麦之発殺」。明治になって想像で描かれた錦絵で、名前が出ているのは島津久光と小松帯刀のみ。

(町田 明広:歴史学者)

軽視されてきた生麦事件

 生麦事件は、文久2年8月21日(1862年9月14日)に起こった英国人殺傷事件である。今年は2022年なので、ちょうど160年を迎えたことになる。教科書に記述されるほどの大事件にもかかわらず、単なる外国人の殺傷事件として片づけられている。筆者は、この実態に大きな違和感があり、極めて残念な思いである。

 生麦事件は、その後の歴史に多大な影響を与えており、歴史的な大転換と言える大事件であるが、残念ながら軽視されていると言わざるを得ない。今回は事件勃発から160年目となる生麦事件について、事件はもちろんのこと、事件前後の状況についても、詳しく見ていきたい。そして、どのような影響をその後の幕末史に与えたのか、その真相に迫りたい。

生麦事件勃発の背景―薩摩藩・島津久光の事情

 文久2年5月21日、島津久光は幕府に人事改革(一橋慶喜を将軍後見職、松平春嶽を大老に登用)を迫るため、勅使・大原重徳に随従し兵を率いて京都を出発し、6月7日に江戸へ到着した。久光にはその実現を通じて、自らが幕政に参画する目論見があった。

島津久光

 6月23日、薩摩藩は江戸留守居役・西筑右衛門の名で幕府に対し、外国人(西洋人)が乗馬の上、江戸市中を乗り回すことを非難し、外国人に不作法があった場合には、仕方なく国威(日本のプライド)を汚さないよう、時勢に即した処置を講じるので、各国公使に通達して欲しいと届書を提出した。つまり、市中を我が物顔で行きかう外国人に嫌悪感を抱いており、目に余る場合は切り捨てることを暗に届け出たのだ。

 さすがに、本気で外国人をバッタバッタと斬りまくるつもりではなかったと考えるが、幕府に強く善処を求めている。薩摩藩は開明的で、反攘夷主義のように言われることもあるが、攘夷であることに変わりはなかった。なお、この後に起こる生麦事件を考えると、示唆的な意見書であったと捉えることも可能であろう。

 久光は慶喜と春嶽(結果として新設の政事総裁職)の登用を果たし、初期の目的は達成したものの、幕府の久光への対応は至極冷淡であった。それもそのはずで、外様であり藩主の実父に過ぎない久光が兵を率いて江戸に入り、朝廷の威光を借りて幕政に介入しようとする態度に対し、幕府には強い嫌悪感と憤りがあったことは想像に難くない。

 久光は慶喜・春嶽の登用をアシストすることで、自らの幕政参画の足がかりを作ることを期待していたが、幕政参画の道は途絶えたため、京都に戻ることになった。こうして、不愉快極まりなく殺気立った400人ほどの武装集団が京都に向かって東海道を進軍することになったのだ。