坂本龍馬

(町田 明広:歴史学者)

新シリーズスタート

 2022年がスタートして、もう2ヶ月近くが経過してしまった。筆者は今年、年男であり、還暦を迎えることになるが、恐らく、気がつけば年末なのだろう。それはさておき、昨年の渋沢栄一シリーズに続き、今回から「幕末維新人物伝2022」をスタートさせたい。今年もどうかよろしくお願いいたします。

 本シリーズでは、幕末維新期の様々な人物を取り上げることになるが、ある人物のおおよその人生を俯瞰して、詳細にお届けすることになるか、あるいは、ある人物の特別なエピソードのみを切り出してお届けすることになろう。

 第1回目として、坂本龍馬を取り上げたい。おそらく、龍馬については何回も取り上げることになると確信しているが、今回は龍馬が薩摩藩士として活躍することになった経緯を、そして、本当に薩摩藩士であったのかを、3回にわたってお話ししたい。まずは、薩摩藩が龍馬を藩士として受入れる経緯から始めよう。

通説の浪人・坂本龍馬

 一般的に、坂本龍馬は土佐藩を脱藩した浪士として扱われる。龍馬は藩という、本来あるべきはずの絶対的な後ろ盾を持たなかった。にもかかわらず、龍馬は自分一個の才覚によって、藩と藩の間を縦横無尽に飛び回り、明治維新を成し遂げたスーパーヒーローとして、広く知られている。例えば、薩長同盟や大政奉還を龍馬の功績とする場合が多い。しかし、今でこそ誰でも知っている龍馬であるが、同時代の人たちにとっては、龍馬もただの一人の若者に過ぎなかったことを、私たちは見落としていないだろうか。

 そもそも、なぜ龍馬は脱藩したにもかかわらず、ここまでの活躍をすることができたのであろうか。現代であれば、脱藩と言えば国籍が不明になることであり、普通は信用もなく活動もままならないはずである。龍馬にとって、脱藩とはどのような意義があり、周囲はどのように捉えていたのだろうか。

 通説では、龍馬は脱藩後、浪人として薩摩藩と行動をともにし、その後、土佐藩に復帰して海援隊を組織し、隊長となったとする。しかし、筆者は、龍馬は薩摩藩士となって活動したと考えている。それは、どのようなことから導き出したのか、詳しく述べていこう。