功山寺 写真/アフロ

(町田 明広:歴史学者)

幕末維新人物伝2022(15)「前原一誠と萩の乱①」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72052

前原一誠と中央政局の動向

 文久元年(1861)10月、吉田松陰の死を乗り越えた前原一誠は、長州藩の練兵学校砲兵科に入って砲術修業を行い、その後、舎長となった。この頃、長州藩は直目付・ 長井雅楽の航海遠略策を藩是として採用し、朝幕間の融和を図る国事周旋に乗り出していた。

長井雅楽

 航海遠略策とは、朝廷が幕府に大政委任をしていることを前提に、通商条約の勅許を暗に要求し、鎖国の叡慮(天皇の意向)を曲げて海軍を建設し、日本から外国に押し渡って航海交易をする優位性を説いた対外政略論である。

 そして、その実行を朝廷が幕府に命じれば、異論を唱えることはあり得ず、即座に「公武御一和」(朝廷と幕府の融合)と「海内一和」(諸侯を含む日本全体の融和)が実現され、皇国(日本)は五大州(全世界)を圧倒するとして、長州藩は朝廷に航海遠略策の採用を主張したのだ。

 しかし、久坂玄瑞を中心とする松下村塾出身者は徒党を組み、なんと同藩の長井の弾劾を主張し、暗殺を企てる気配さえ示した。そこに飛び込んできたのが、薩摩藩国父・島津久光による率兵上京の動向であった。この事態に鑑み、文久2年(1862)3月24日、藩は久坂や前原を始め、寺島忠三郎、入江九一、山県有朋、品川弥二郎、松浦松洞ら松下村塾グループを中心とする数十名に、表向きは剣槍銃陣修業、内実は情報探索と不測の事態に備えるために、兵庫出張を命じたのだ。

 その後、久坂らは京都において、薩摩藩の激派と呼応して義挙を企てたが、4月23日、久光の命を受けた鎮撫使によって鎮圧された寺田屋事件によって挫折した。しかし、むしろこれを踏み台にして、長州藩の藩論は未来攘夷から即時(破約)攘夷に大転換し、長井は失脚を余儀なくされたのだ。