文久元年(1861)10月、吉田松陰の死を乗り越えた前原一誠は、長州藩の練兵学校砲兵科に入って砲術修業を行い、その後、舎長となった。この頃、長州藩は直目付・ 長井雅楽の航海遠略策を藩是として採用し、朝幕間の融和を図る国事周旋に乗り出していた。 航海遠略策とは、朝廷が幕府に大政委任をしていることを前提に、通商条約の勅許を暗に要求し、鎖国の叡慮(天皇の意向)を曲げて海軍を建設し、日本から外国に押し渡って航海交易をする優位性を説いた対外政略論である。 そして、その実行を朝廷が幕府に命じれば、異論を唱えることはあり得ず、即座に「公武御一和」(朝廷と幕府の融合)と「海内一和」(諸侯を含む日本全体の融和)