壇之浦の古戦場跡の源義経像 写真/アフロ

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿の時代(14)上総介広常粛清の背景(前編)https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69770
鎌倉殿の時代(15)上総介広常粛清の背景(後編)https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69771

一ノ谷に厳重な防禦陣地を構えた平家軍

 前回「長いナイフの夜」の話を引き合いに出したので、今回も一ノ谷の合戦を説明するにあたって、近代戦の話を引き合いに出してみましょう。

 第1次世界大戦が終わったのち、フランスはドイツを仮想敵国とみなして、ドイツとの国境にマジノ線という強力な要塞地帯を築きあげました。ただ、友好国であるベルギーとの国境には要塞を築くわけにはゆきません。それでも、ベルギーとの国境地帯であるアルデンヌ高原には深い森が広がっていて、戦車やトラックなどの大部隊は通れない、と考えられていました。

 ところが1940年の5月、地形を研究したドイツ軍は、戦車を主力とした機甲部隊でアルデンヌの森を踏破し、フランスになだれこんだのです。この電撃戦(ブリッツクリーク)によってフランス軍の主力はたちまち崩壊し、ドイツは短期間でフランスを屈服させてしまいました。

 話を元暦元年(1184)の日本に戻しましょう。都を追い落とされた平家は、西国で勢力を盛り返して摂津の福原まで戻ってきました。福原は、かつて清盛が都を移そうとした港湾都市です。そして、福原を中心として東は生田の森、西は一ノ谷に厳重な防禦陣地を構えて、鎌倉軍の攻撃に備えました。

能福寺(兵庫市神戸区)にある平相国廟(平清盛廟) 写真/PIXTA

 対する鎌倉方は、範頼の率いる大手軍が東の生田方面から、義経の搦手軍は西の一ノ谷から、それぞれ総攻撃をかけるという作戦を立てました。義経の搦手軍は摂津の山の中を通り、播磨に入ったあたりで海辺に出て、一ノ谷に向かう手はずです。

 もちろん、平家方もバカではありませんから、山側からの攻撃も警戒していました。山側から福原に下ってる道沿いに防禦陣地を構えて守備隊を配置し、さらに平資盛に別働隊を預けて、三草山(みくさやま)という所で鎌倉方を迎え撃とうとしていたのです。

一ノ谷から見た神戸市須磨区 写真/PIXTA

 一方、三草山の資盛隊を夜襲で蹴散らした義経は、しばらく山中を進みましたが、途中から急に作戦を変えました。搦手軍の主力は、副将である土肥実平らに預けて、予定どおり海沿いから一ノ谷に向かわせることとし、自分は少数の精鋭部隊を率いて、山の中の獣道へと分け入っていたのです。

 この時代、軍の主力は騎馬武者です。強力な鎧で防禦され、自在に走り回る馬の上から次々に矢を放つ騎馬武者は、歩兵では対抗できません。この時代の騎馬武者は、近代戦における戦車のような存在だったのです。

 ただし、騎馬武者はひらけた土地では威力を発揮しますが、道のない山や森の中では身動きが取れません。つまり、道のない山の中から騎馬武者隊が攻撃してくるという事態は、常識外・想定外だったのです。

 義経は、少数精鋭の機動力を利用して、この常識を打ち破りました。まったく予想もできなかった山の中から、突如として現れた義経隊の攻撃によって、平家の陣は大混乱に陥ったのです。(つづく)

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