写真:花井智子

 今日、最終戦を迎えるBリーグチャンピオンシップ。富樫勇樹を初め、多くの選手たちのプレーが熱狂を生み出している。

 設立5年目、ファンに絶大な人気を誇り、大きな市場をつくったBリーグ。その黎明期を支えたのが、レバンガ北海道の社長・折茂武彦だ。

 選手として29年、昨年(2020年)5月に引退するまで10000得点という前人未踏の記録を打ち立てた男であり、2億円を超える借金をしてまで北海道の地にバスケットボールクラブを残した男でもある。

 そんな折茂が記した話題の書『99%が後悔でも。』より、選手兼社長としての苦悩を綴った哲学を全4回で紹介する、第3回。(JBpress)

第2回世代最高のバスケットマンは、なぜ弱小クラブを選んだのか?
はこちら(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65461

退社と「契約選手」

 インカレ優勝、MVPという看板を引っ提げて、進路に選んだのは、当時はまだ弱小の実業団チーム「トヨタ自動車」だった。

 「何か行動を起こさないと、このチームは変わらない」

 自分の本気度を示すという意味も含めて、アクションを起こす必要があった。

 中途半端な気持ちのまま会社の業務に当たる毎日にも、ケリを付ける必要があった。

 何より、仕事が合わなかった。周りを見れば、プロ野球や誕生したばかりのJリーグの選手が華やかなスタジアムの中で、プレーし、喝采を浴びていた。

 かたや、同じスポーツをしていても、わたしは社員である。シーズンが終わった後にオフなんてない。会社の仕事をするのだ。けれど、プロになれば、仕事に時間を奪われることなく、自由に時間を使えるはずだ。

 自分の中で、すでに道は決まっていた。

 俺は、バスケットボールだけで勝負する──。

 決意してすぐに、上司に退職届を出した。トヨタ自動車でバスケットボールをすることをやめたわけではない。社員としての雇用契約を終了させ、「バスケットボールだけをする契約社員」として、再び契約を結んでもらったのだ。

 いわゆる「契約選手」。事実上、プロ選手になったようなもので、日本バスケットボール界では異例の試みだった。

 本心では、純然たるプロ選手になることを希望していた。

 だが、折しも日本はバブル崩壊による不景気の真っただ中。「企業イメージ」や「世間体」といったものもあり、それは見送られた。

 契約は1年ごとで、給料の査定に反映されるのはバスケットボールの結果のみ。自分の活躍次第で、給料を上げられる。時間も自由に使える。

 翻ってそれは、選手として活躍できなくなれば、いつでもクビになることをも意味した。

 でも不安はなかった。というより、先のことなど何も考えていなかった。

 「トヨタ自動車のバスケットボール部を、そしてこの違和感だらけの生活をなんとかして変えたい」という思いに駆られ、行動に移したまでだ。

 「そのとき、そのときにフォーカスし、どう乗り越えていくか」

 この頃もいまも、このスタンスは変わらない。

 「退部」して1年目、トヨタ自動車に入って3年目、チームの調子は少しずつ上向いていた。

 その頃、わたしは日本人得点ランキングNo.1の座を不動のものとしていた。チームでも攻撃の第一オプション、いわゆるエースの役割を任されていた。

 3年目は5位。4年目は準優勝。だからこそ、一層はがゆかった。ましてや、契約選手として戦っている身。バスケットボール選手としてチームに必要とされているにもかかわらず、「最高」の結果をもたらすことができていない――。

 負けることに慣れてしまいそうになる自分もいた。

 「いやいや、ありえねえだろ、こんなバスケ人生」

 「俺は優勝しないと給料が上がらないんだ」

 心に秘めた思いは、焦りといら立ちとして行動に出ていた。しかし当時はまだ上下関係が絶対的な時代。先輩たちに直接物申すことはどうしても憚られた。

 5年目を迎えた頃だ。

 わたしが入社したときに中心選手としてプレーしていた諸先輩が、引退し始めていたし、自分自身、それなりの結果を収めてきた自負も生まれていた。

 ここで変えるしかない。

 再び、行動に出た。