かつてヨーロッパの天文学者たちには、それぞれパトロンがいた。しかし、ドイツが生んだ大科学者ヨハンネス・ケプラーには生涯にわたってまともな後ろ楯がなかった。天文学の研究を続けるために占星術で金を工面したというケプラーの苦難の人生にせまる。(JBpress)

(※)本稿は『ガリレオの求職活動 ニュートンの家計簿 科学者たちの生活と仕事』(佐藤満彦著、講談社学術文庫)より一部抜粋・再編集したものです。

ドイツが生んだ最初の大科学者ケプラー

 ヨハンネス・ケプラー(1571~1630)は、ドイツが生んだ最初の大科学者である。そして、ドイツはそれ以後19世紀に至るまで、ライプニツを除けば自国生まれの大科学者を一人も生み出すことができなかった。

 ケプラーは、師のティコ・ブラーエが臨終の床で自分のために残した膨大な観測資料をもとに、惑星の運動とその軌道に関する有名な「ケプラーの三法則」を確立した。コペルニクスは惑星が円軌道上を回ると考えていたが、彼は軌道が楕円であることを証明したのである。

 ケプラーはこのほか、樽の体積の計算法を考案して積分学の基礎を築き、また望遠鏡の接眼レンズに凸レンズを用いるよう提案して、光学の土台をつくることにも寄与した。

 荊棘(けいきょく)の道を自らの力できり開いたケプラーの多難な人生は、独立実行型の科学者の見本といえよう。

 彼の前後に出た天文学者たちには、コペルニクスにはカトリック教会、ティコ・ブラーエにはデンマーク王、ガリレオにはトスカナ大公、そしてニュートンには財政的基盤のしっかりした大学というように、程度の差はあるものの、彼らの研究生活を直接あるいは間接に支えた後ろ楯があったが、ケプラーの場合は実質的にはパトロンを欠いていた。

 もっとも、彼も時代の子であり、神聖ローマ帝国皇帝の名ばかりの庇護は受けた。しかし、皇帝はその肩書の絶大さとは裏腹に、16世紀に始まった世界経済の大変動と宗教上の騒乱に絡んだ度重なる戦費の投入によって、侍らせた科学者を十分潤してやれるだけの財力はもはやもたなかった。

 ケプラーは、戦乱の神聖ローマ帝国内の各地を遍歴し、妻子の糊口を凌ぐための金の工面に悩まされながら、死の間際まで数々の研究を倦まず弛まず続けた。