日本最古の正史とされる『日本書紀』が編纂されてから1300年の今年、特別展「出雲と大和」が東京国立博物館で開催されている。記紀(古事記と日本書紀)にはなぜ出雲神話が存在するのか。出雲地方に、強力な地方王権は本当に存在したのか。社会学博士の新谷尚紀氏が民俗学と歴史学の視点から日本最古にして最大のミステリーを紐解く。(JBpress)

(※)本稿は『伊勢神宮と出雲大社「日本」と「天皇」の誕生』(新谷尚紀著、講談社学術文庫)より一部抜粋・再編集したものです。

日本国家の出発点

 もっとも重要であり、最初に確認しておかなければならないことは、倭に代わる「日本」という国号、大王に代わる「天皇」という称号、これらの成立がいずれも、7世紀後半の天武・持統(じとう)朝においてであったという事実である。そして、その天武・持統朝において成立した「日本」と「天皇」に対して、その存立の基礎であり基盤であったのが、伊勢神宮という神社の創建であった。

 その伊勢神宮の創祀にむけては、推古朝における日神(ひのかみ)祭祀、斉明(さいめい)朝における出雲の祭祀世界の吸収、持統朝の社殿造営と行幸、という三つの画期があった。確実な伊勢神宮の造営は天武2年(673)4月の大来皇女(大伯皇女)の泊瀬(はつせ)の斎宮への参篭(さんろう)から翌3年(674)10月の伊勢への出発の段階である。持統6年(692)の伊勢行幸に際して社殿の造営が完了していたことは確実である。

 それは律令制的な税制度のもとでの伊勢神宮の造営であり、新益京(藤原京)という新たな都城の造営と対をなす国家的事業であった。政治権力の基盤としての「律令制と都城制」、これに対応する宗教権威の基盤としての「神祇(じんぎ)制と官寺制」、という律令国家の体系のもとで、その神祇制の中核としての意義をもつ伊勢神宮の造営と祭祀が完備されたのである。

 天照大神(あまてらすおおみかみ)のモデルとなったのは高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)をその謚号(しごう)とする持統天皇であった。それまでの倭国に代わる「日本」という国号も、大王に代わる「天皇」という称号も、この天武・持統朝において成立したのであり、まさにそれは現代にまでつながる日本国家の出発点としての意義をもつものであった。

 ただし伊勢神宮の創祀の意味は、このような歴史的な事実関係の追跡からだけでは重要な点が見えてこない。記紀になぜ出雲神話が存在するのか、しかもなぜそれがもっとも重要な意味をもっているのかという難問がのこる。

 その問題も含めて、出雲大社の祭祀と対をなすものととらえるとき、はじめて大和王権の祭祀世界が見えてくるのである。そこで、〈外部〉としての出雲、という概念設定が有効な分析視点を与えてくれる。そして、以下の諸点が指摘できる。