好奇な目で見られる理由は、「みんなと違うから」だと納得しながら、僕はどんどん心を閉ざしていった。

 実際、幼稚園児がどんな言葉を投げつけてきたのか?

 そしてどういう行為によって、僕が傷つけられたのか?

 細かい記憶があるわけではない。けれど、友だちと呼ばれる子どもたちが僕との間に築いた壁の存在は、幼稚園児ながら自覚していた。だから、そこへ行きたくなかった。もちろん、友人たちに悪意があったわけではない。

「ハーフ」という言葉が嫌い

 日本人の父とドイツ人の母のもと、僕は1991年にアメリカのニューヨーク州で生まれ、2歳の時、父の故郷である新潟県三条市に移った。1歳上に兄・高喜、2歳下に弟・宣福がいる。一番下の弟、高聖が生まれた時に、兄弟で「ゴウがつく名前にするなら、悟空にしようよ」といい合ったことを覚えている。僕は5歳だった。

 今でこそ、両親のルーツが異なる子どもたちは多いし、スポーツ界や芸能界などで活躍する人たちもいて「ハーフ」という言葉にも馴染みがあるだろう。そして、「ハーフだからカッコいい」なんていわれる人たちもいる。しかし、90 年代半ばのしかも地方都市では、 まだまだその存在は異質なものでしかなかったんだと思う。特に子どもにとっては奇異に映ったはずだ。

 しかも兄弟の中で唯一、僕だけが、髪の色がブロンドだった(年齢を重ねて、その色は濃くなっていった)。だから、「ハーフ」や「外人」という言葉を投げつけられたのだろう。

 それは小学校に進級してからも変わらなかった。

 さすがに、泣いて行くのを嫌がりはしなかったけれど、入学当初は学校へ行ったところで楽しいことがあった記憶がない。クラスメートとは挨拶くらいはしたけれど、声をかけられても曖昧にうなずくとか、笑ってやり過ごすだけだった。たとえ好意的な言葉だったとしてもそれに対してどう応じていいのか、僕にはわからなかったから。

 10歳に満たない子どもにも社会はあるんだと思う。そういう集団生活に身を投じた時、 僕は無力だった。人とは違う外見に思い悩み、コンプレックスとして受け入れることで、日々を諦めていた。誰も僕のことなんて理解できないと。だから、周囲の人間とはいつも距離をとった。

 とにかく目立ちたくなかった。