例えば物理や化学は微分方程式などを普通に使って教えますし、社会科学でも統計学など数式を併用する議論が当たり前に展開される。

 日本独特の、島国だけで通用する「使えない偏差値秀才」的な病に陥らずに済む、いわば緩和の段階を、教養課程で踏むことができるように思います。

 すでに大昔の話ですが、自分自身の学生時代を振り返っても、ここで間に合わせたことは少なくなかったと思います。

 大学受験と言うと、その範囲で本当に必要なことだけにみな血眼になりやすいし、そこで合格したら、もうオッケーなんて勘違いしてしまう。

 実際は中学程度の算数しか使わない温室栽培サイエンス未満でも、その母集団の中では席次が高いというだけで、島国の中では得意になれ、大いなる錯覚に陥ってしまう。

 それを打ち破る段階を、大学教育側にも、それと意識してきちんと設ける必要が今以上にあるように思われてなりません。

 もう1つの、より本質的な解決は、中学高校生段階、学習の最初期に、本物の方法を教えてしまうことで、6年一貫校などでは中学の理科で三角関数を普通に使うなど、カリキュラムの工夫があります。

 実は「ゆとり教育」が目指したはずの「総合的学習」とは、そういう形で、形骸化した縦割り教育の全身硬直を緩和して、より柔軟な指導を目指す「はず」だった・・・。

 少なくとも有馬朗人さんがこれを考えた端緒はそうだったと本人から伺ったことがあります。でも、うまくいかなかった。

 理由は、そのような「たすきがけ教育」を実践できる指導者の育成、先生の人材層を厚くするところから始めず、いきなり現場投入して、教師も生徒も父兄もみな混乱したというのが現実です。

 その原点の動機、不自然に中身のない、縦割り学習指導要領の弊害を克服するという点は、依然としてずっと残ったままになっているのが現状でしょう。

 少子高齢化で「学校業」が「教育サービス産業」に流れやすく、ただでさえ良貨が悪貨に駆逐されやすい傾向が強いなか、「縦割り制度」の弊害克服に「たすきがけ」の対抗策は、もっと縦横に検討されてしかるべきと思います。

 この方向から続けて、次回は日本の「外国語」教育の抱える一大問題を考えてみたいと思います。