ずらりと並ぶキャンバスで「勝負」 中国の美大、6400人が入試に挑む

約6400人が受験した中国の美大の入学試験(2018年2月24日撮影)。(c)CNS/張勇 〔AFPBB News

 日本の教育制度の抱える構造的問題として認識されながら、現在も解決のめどが立っていない「原罪」のような症候群について、数回に分けて考えてみたいと思います。

 初回は、我が国の未来を支えるであろう先端テクノロジーやサイエンスのフロンティアを開拓する、イノベーティブな人材が、どうして日本から出てきにくい構造になっているか、を考えてみます。

 これは昔からよく言う、大学教養課程におけるジンクスのようなものですが

高等学校で数学が得意だった人は 物理に向いており
高等学校で物理が得意だった人は 化学に向いており
高等学校で化学が得意だった人は 生物に向いている

 なんて表現を取ることがあります。

 「高校で生物が得意だった人はどうなるの?」とか 「数学に向いてる人はどうなの?」と突っ込みが入りそうですが、数学、特に新しい定理を自分で発見して開拓していくような人は個人の適性としか言いようがありません。

 才能という言葉は思考停止的で使いたくありませんが、一般論で数学科向きというような話にはなりにくい。

 高校の生物は事項の羅列が多く、逆に論理的に演算可能な構造が少ないので、以下の議論になじまない、というのが、値引きなしに言う本当の背景と思います。

 さて、どうしてそういうことになるか?

 この背後には、日本の教育制度が抱える大きな特徴と限界が存在しており、いい加減な風聞でとどまるものではないと考えることができます。

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教育指導要領と縦割り学習

 大学入試を考えると分かりやすいのですが、国語の出題には国語以外の要素を出してはいけないことになっています。

 「何を当たり前なことを」と言われるかもしれません。が、同様に考えてみますと

数学の試験には、数学しか出してはいけない。
物理の試験には、物理しか出してはいけない。
化学の試験にも、化学しか出してはいけない。
生物の試験にも、生物しか出してはいけない。

 というルール、もう少し厳密に言うなら、各々の教科の学習指導要領の範囲からしか出題してはいけない、という縛りがあって、その中で問題を出しています。

 いま理科で話をしていますが

国語の試験には、国語しか出してはいけないし
日本史の試験、世界史の試験、地理の試験・・・全部縦割りになっています。

 そこで、非常にしばしば言われることは

 「高校物理では、微積分が使えないから、力学も電磁気も本当のことが教えられない」というクレームが出てくるわけです。

 微分法という演算は、ニュートンが彼の体系を作るうえで発明し、同時期のライプニッツが優れた記号法を発明、ニュートンに続く欧州の先駆的な科学者たちがこれを活用することで、古典力学を中心とする近代科学のもといを築いたものです。

 微積分を使わずに力学を語るというのは、漢字を用いずに漢文を教えるくらい、本来は不自然な話です。

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 というような式の形は、整関数の積分の形そのもので、いちいち暗記するとかいう代物ではありません。

 しかし、日本国における高等学校の物理という教科は、なぜかこの極めて人為的なルールによって、微分も積分も用いずに、かなり人工的な方法を工夫して、古典力学や電磁気学、熱学や量子論などの現代物理を「平易な算術」だけで教えている。

 先に今回の一連のコラムの結論の1つを書いてしまうなら

 こんなルールは日本国内でしか通用しないものであること、半歩日本を出た国際社会の一線では、全く通用しないもので、こんなビニールハウスの中で競争試験をしてみせて、席次がいいとか、偏差値がどうのとか言っても、およそ通用するものにはならない。

 遊戯のための遊戯にしかならない。それによって本来は世界に雄飛すべき若い人たちの知性と可能性を大きくスポイルしてしまっているリスクを、ここでは強調したいと思います。

 本来、物理で微積分は非常に露骨で分かりやすいわけですが、これを広げて一般化した議論はあまり目にしないように思いますので、もっとはっきりと記していきたいと思います。

 物理で微積分が使えない、というのは、微積分に限った話ではなく、要するに、高等学校で習う数学全般を「高校物理」では使うことができないということにほかなりません。どういうことでしょうか?

 つまり、高校物理と言っているものは、事項だけは新しいファクトが関わるけれど、現実に用いているロジックは、ほぼすべて中学以下の義務教育の算術しか使ってはいけないという、極めて強いくびきを課せられたものであるのが、お分かりいただけるかと思います。

 これは物理だけではありません。高校の化学でも、四則演算以上の計算など出てきません。化学の入試問題で計算させるなどといえば、せいぜい熱化学方程式の足し算引き算程度で、論理的に高度な演算など、何一つ出てこない。

 現在の高校生物で、事項の暗記で答える以上に、どのような計算問題や論理的な骨格をもった課題が出されているのか、詳しいことを押さえきれていません。

 ただ言えることは、「中学までの算数数学を超える範囲は出てこない」ということで、国際レベルで考えるなら、赤子の手をひねるようなロジックしか、日本の理科は入試で出題できない、という共通のルールに注目する必要があると思います。

 ここまで見ると、先ほどのジンクスがよく分かると思います。

 高校までの範囲の数理を縦横に使いこなすことができれば、大学以降の物理も、あるいは物理化学のような分野も、生物物理なども、かなりスムースに入っていくことができます。

 他方、高校で物理が得意、でも大学レベルでの物理にはちょっとギャップがあるという場合には、論理演算については中学レベルまでの内容に過剰適応しており、理論科学の側面以上に、現場での化学実験などに進む方がスムースなことが多いと解釈すればしっくりします。

 また、高校で化学が得意だった人にとっては、大学レベルの生物のコアは、つまるところ生化学と細胞生物学の合わさったものなので、ケミストリーに慣れた人が生物学、生命化学、バイオテクノロジーに進みやすいという話になる。

(これは、35年ほど前の経験では記憶しますが、現状違っていたらお許しください。ただし、生化学のない大学教養生物はあり得ませんから、大きく外れることはないでしょう)

 ここで盲点になりやすいのは、国際的には微積分でも初等関数でも、それらを縦横に活用する統計学など計算機を活用する諸分野も、現実の生命科学では主役を演じているわけですが、日本の教育制度の分断からは、必ずしもそれらの専門と、学生の学習準備とが直結していない。

 ここに問題があるのではないでしょうか?

大学合格を祝いすぎることなかれ

 日本では、学習キャリアの大きな一里塚として大学入試が位置づけられ、そこでの成果を過剰に評価する傾向があると思います。

 「一流大学に受かった!」と喜ぶのは結構なのですが、そこで学習が止まってしまい、その先はサークル活動や社会勉強と称するアルバイト、2年次後半ともなれば、はや就職活動と浮足立ち始めたりして、本当に本腰を入れて大学課程を勉強するということが、かなりおざなりになりやすい。

 好き嫌いを別として、これは認めておかねばならない、現状の問題と思います。

 大学生は、合格以降、必ずしも十分に勉強しない傾向がある。加えて、日本国の教育の現状に限って言うならば、例えば高校「理科」は実質「中学までの数学・算数」しか、ロジックの基盤に置くことができない。

 この制約は、非常に大きな問題を作り出している可能性があると思われ、今回の紙幅では到底扱い切れませんが、繰り返し立ち戻って考えたいと思っています。

 問題を指摘するだけでなく、対案を記しておかなければ、建設的ではないと思いますので、いくつかこれを免れる方法を記しておきたいと思います。

 例えば教養教育と大学学内での制度設計で、こうした問題は随分緩和されるように思います。

 日本の多くの大学では教養学部・教養課程が廃止されて、入学当初から専門が決まっている場合が圧倒的に多くなっています。

 しかし、東京大学など一部では、大学1、2年次の成績によって、進める学部学科が限られるため、大学合格以降も引き続き競争試験の状態が続き、嫌でも勉強しなければならない環境に置かれます。

 それ自体はあまりいい話ではありませんが、結果的に大学1、2年で教える数学も、各種の理科も、ここできちんと間に合うようになっている。

 例えば物理や化学は微分方程式などを普通に使って教えますし、社会科学でも統計学など数式を併用する議論が当たり前に展開される。

 日本独特の、島国だけで通用する「使えない偏差値秀才」的な病に陥らずに済む、いわば緩和の段階を、教養課程で踏むことができるように思います。

 すでに大昔の話ですが、自分自身の学生時代を振り返っても、ここで間に合わせたことは少なくなかったと思います。

 大学受験と言うと、その範囲で本当に必要なことだけにみな血眼になりやすいし、そこで合格したら、もうオッケーなんて勘違いしてしまう。

 実際は中学程度の算数しか使わない温室栽培サイエンス未満でも、その母集団の中では席次が高いというだけで、島国の中では得意になれ、大いなる錯覚に陥ってしまう。

 それを打ち破る段階を、大学教育側にも、それと意識してきちんと設ける必要が今以上にあるように思われてなりません。

 もう1つの、より本質的な解決は、中学高校生段階、学習の最初期に、本物の方法を教えてしまうことで、6年一貫校などでは中学の理科で三角関数を普通に使うなど、カリキュラムの工夫があります。

 実は「ゆとり教育」が目指したはずの「総合的学習」とは、そういう形で、形骸化した縦割り教育の全身硬直を緩和して、より柔軟な指導を目指す「はず」だった・・・。

 少なくとも有馬朗人さんがこれを考えた端緒はそうだったと本人から伺ったことがあります。でも、うまくいかなかった。

 理由は、そのような「たすきがけ教育」を実践できる指導者の育成、先生の人材層を厚くするところから始めず、いきなり現場投入して、教師も生徒も父兄もみな混乱したというのが現実です。

 その原点の動機、不自然に中身のない、縦割り学習指導要領の弊害を克服するという点は、依然としてずっと残ったままになっているのが現状でしょう。

 少子高齢化で「学校業」が「教育サービス産業」に流れやすく、ただでさえ良貨が悪貨に駆逐されやすい傾向が強いなか、「縦割り制度」の弊害克服に「たすきがけ」の対抗策は、もっと縦横に検討されてしかるべきと思います。

 この方向から続けて、次回は日本の「外国語」教育の抱える一大問題を考えてみたいと思います。