日米修好通商条約の締結を決断した大老の井伊直弼(ウィキペディア

 2011年は日独修好通商150年だという。様々な催しが計画され、私自身もいくつか準備しているものがある。2011年から150年さかのぼれば1861年、つまり幕末だ。

 既に「桜田門外の変」で井伊大老は殺されていたけれど、日米修好通商条約やその最恵国待遇などの流れの中で、「幕府の日本」と「プロイセン」が国交を樹立したのが1861年だということになる。

 決して現在の「日本国」と「ドイツ連邦共和国」ではないところがポイントだ。

 さてしかし、考えてみよう。日本とドイツの縁というのは、実はどこまでさかのぼれるのか?

長期航海の様々な知恵

 突然だが、変な話になるのをお許しいただきたい。「ダッチワイフ」という言葉がある。この頃はやや死語になってきた観があるが、要するに生きた女性の代わりに男性の性的リクエストに応える人形のようなものを指す言葉だ。

 このダッチとはなんなのか?

 オペラがお好きな向きには「フライング・ダッチマン」というタイトルをご存じの方がおられるだろう。邦訳は「さまよえるオランダ人」つまりダッチワイフとは「オランダ人の妻」ということになる。

 なぜオランダ人は人形を「ワイフ」とせねばならなかったのか?

 答えは「遠洋航海」にある。華奢な女性が乗り組むことができない長期の遠洋航海、そう、アムステルダムやハーグからはるばる長崎まで来るような航海で「ダッチワイフ」は活躍したにほかならない。

 極東貿易を担った「東インド会社」としてはオランダのそれと英国のものが有力だが「ダッチワイフ」がオランダ人の名を冠したのは、一足先にこの航路を開拓し、またそこでの生活全般(性の問題なども含めて)に一通りの解答を得ていたからだろうと思われる。

 英国人も愛用したダッチワイフ? お話が尾篭になって真に申し訳ない。