たとえば陶芸家に「ぐい飲みが3万円で売れるんですか! すごいですね!」と褒めたとしたら、その陶芸家は憮然とした顔をするか、なんとか失礼のないようにひきつった笑顔を見せるか、どちらかだろう。

 器の値段は作家にとって「結果」であり「外側」でしかない。そんなところを褒められても、ちっとも嬉しくない。

 しかし「きれいな赤! どうやったら出るんですか?」「この青いビードロ、きれいですね。どうしてこうなるんですか?」と質問すると、陶芸家は嬉しくなっていろいろ語り出すだろう。その赤、青を出すためにどんな工夫と努力を重ねたのか、それを披露する機会が得られたからだ。

 そこで「へえ、そんなに難しいことなんですか!」と言えば、ますます「この人は私の苦労をよく分かってくれる」と嬉しくなるだろう。次の作陶で考えている案を語り出してくれるかもしれない。

「それはぜひ見てみたいですねえ!」と応じれば、作家も次の作陶が楽しみになって、やる気が増すだろう。

 なぜか? 結果よりも、その結果を出すためにどんな努力や工夫を重ねたのか、その人の「内側」、つまり心の内面に起きた葛藤に気づいてくれたと感じるからだ。

 そしてそれを褒められたり追認されたりすると、「分かってくれた」と嬉しくなる。「私が重ねた努力や工夫は間違っていなかった」と意を強くする。また新たな努力と工夫を重ねよう、という意欲が湧いてくる。

 意欲が強まり、そこに努力と工夫が加わるならば、当然結果はついてくる。途中、失敗も起きるだろう。しかし意欲をもって努力、工夫を続ける人は、失敗さえも糧にし、次に活かすだろう。結果にとらわれているのではなく、努力、工夫こそが大切だと分かっているからだ。

「褒める」のならば、「その人の“外側”ではなく“内側”を褒める」必要がある、というのは、以上のような理由からだ。