『蜜蜂と遠雷』は「音」そのものと正面から向き合っている(写真はイメージ)

(本記事は2017年1月14日に公開されました)

 芸術とは一体なんなのであろう。今回は、今話題となっている一冊を読み解きながら芸術について考えてみたい。

 岡本太郎は「芸術=爆発」と定義した。確かにその答えには、当人のキャラクターも含めて有無を言わさぬ説得力がある。実際に「あなたの考える芸術とは何ですか?」というテスト問題があったとして、あなたなりに100点を狙うとしたらどのように解答するだろう。その答えに考えを巡らせることは、他の人が問いにどう答えるのかということも含めて、非常に興味深いことではないだろうか。

私が「音を楽しむ」ことを知るまで

 1980年代に小学校に通っていた私の思い出を語ると、主要4教科(国語、算数、理科、社会)以外の科目は、ずいぶん級友たちに軽んじられていたように思う。唯一の例外は体育。体育だけは「モテ」の要素があるから重きを置かれていた。足の速い子はそれだけで人気を集め、足が速くなくても得意な球技が1つでもあれば教室内の序列に影響した。ここで言う「軽んじられていた」は体育以外の、例えば図工だとか、道徳だとか、書写だとかの実用系の科目のことだ。学校のカリキュラムを決めた偉い人も、添え物のように考えていそうなこれらの科目。週の授業時間数が少ないこれらは「副教科」と呼ばれている。

 だが、中学に上がると、入試を推薦で迂回しようとする人からは「評定平均」で差をつける武器として、これら「副教科」は熱視線を向けられる。一方、大半の生徒にとっては、学生時代にこれらの科目が得意であってもあまり自慢にはならないから、ひそかに内なる自信を育み心の支えとするぐらいしか活用の方法はない。微妙な位置づけの科目として存在するそれら「副教科」のなかに「音楽」も含まれている。

「音楽」で思い出すのは中学校のことだ。小学校時分は、「音楽」と言うとピアニカ、たて笛、そして何も考えずに皆で一緒に歌を歌うぐらいだった。だが、内外に「合唱が盛んである」と喧伝する私の母校である中学に進学すると、音楽に対しての接し方は一変した。朝は軽く合唱で始まり、昼休みの終わりも合唱、1日の終わりのホームルームも合唱でしめるという「半オペラ」生活を強いられることになったのだ。合唱の合間、合間に授業をしていたと言っても過言ではない。そのうち歌いながら授業をする教師も出始めるのではないか、その笑い話があながち冗談に聞こえないぐらいの異様な「盛ん」であった。