東日本大震災、また福島第一原子力発電所の事故以降「科学者が信頼を失った」とか「専門家の権威が失墜した」といった指摘が日本社会に広がりました。
でも、現実に起きている出来事、例えば原子炉事故の収拾や廃炉処理、汚染水問題の解決など、人類がいまだ直面したことのない事態の前で、今ほど本当は科学の英知や、専門家の能力が必要とされている時代もないように思います。
こんな状況の中、私たちは何をどう考えればよいのでしょうか? 現状を打開する1つのヒントは「知の品格」にあると私は考えています。
科学の知見、技術の力は、多くの場合「両刃の剣」になっていると思います。つまり、良くも使えるし悪いことにも転用できる。もし今、大学や研究所に籍を置く専門家が社会的な信頼を失っているとしたら、名誉と信用の回復に必要なのは「知の品格」だと思うのです。
福島の原発事故のみならず、これまでにも大規模な公害訴訟などで、市民の告発に対して被告側に有利な調査報告や答申を提出する専門家は存在しました。「御用学者」などと呼ばれる、こうした人々は、決して昨日今日になって現れたわけではありません。
明治・大正・昭和はもとより、江戸時代以前から連綿と「御用」に合わせたストーリーを準備する学者は絶えたことがないだろうと思います。
ではどうして、2011年の東日本大震災・福島第一原発事故の後になって、にわかにこの「専門家の権威失墜」が言われるようになったのでしょう?
その謎を解く、1つのヒントが、やや唐突に見えるかもしれませんが、私には「アラブの春」に見えているように思うのです。
携帯電話と「アラブの春」
2010年12月、チュニジアの暴動を皮切りに、イスラム・アラブ世界にはかつて例のない大規模な反政府運動、デモや抗議行動が広がりました。これらをまとめて「アラブの春」と呼んでいますが、その背景には携帯電話やインターネット、ソーシャル・ネットワーキング・サービスの果たした役割が指摘されています。
石油など豊かな天然資源に恵まれながら、アラブ諸国には極端な貧富の差が見られます。独裁的な政治体制の下、富が公平に分配されない社会が何世紀にもわたって続いてきたアラブ社会で、21世紀になって初めて市民が立ち上がった。
その原動力となったのは、人口全体の中では少数派ながら、教育を受け一定の経済力も持ち、何より「情報手段」を持つ新興中間層の人々だとされています。
彼らは衛星放送やインターネットを日常的に利用し、国境を越えて瞬時に情報を獲得する生活習慣になっていました。不正や不当な弾圧の情報があれば瞬時に広まり、さらに携帯電話やフェイスブック、ツイッターなどで多くの人に細かな内容が共有されます。
従来の社会であれば細かに分断され、決して心を一つにすることのなかった大衆が、こうした情報機器によって社会や経済の状態、さらには不正の実態なども把握できるようになった。