三善晃さんが亡くなられた。長年、桐朋学園大学学長として日本の音楽全体の水準の底上げに絶大な貢献をされた、本物の大音楽家であると同時に、1人の作曲家としては、あくまで野党精神に満ちた、鋭利で繊細な表現を研ぎ澄ませ続けた80年の人生だったと思う。

 三善さんの人生を振り返りながら、音楽や芸術の2つの「せんさい」を考えてみたいと思う・・・。「戦災」と「繊細」という2つと、三善さんの人生は不可分だったように思うからだ。

「アカデミズムの泰斗」だったのか?

 私が物心つき、音楽を志した1970年代末、日本の作曲界は大きく見て2の「極」を持っていたような気がする。

 かたや、戦後アヴァンギャルドの雄のごとく、国際的に活躍し、謎めいた自己演出もあいまって偶像化しつつあった武満徹。かたや「保守派最大の大物」に擬せられ、実のところ毎年のコンクールで、学校こそあちこち違っても、結局「三善弟子が1位」みたいな格好になっていた三善晃。

 でもこの両者がそんなに隔たった音楽だったかというと・・・。非常に乱暴な物言いをするけれど、私はそうは思わないのだ。

 そんな感想を持つ1つの理由は、双方と近しかった松村禎三が私の中学生以来の師で、どちらの話もよく聞いていたことだと思う。

 変な言い方だが、響きの表層には様々な違いがあるけれど、武満も三善さんも「精神が音響化」するような、鋭く直截に切り込んでいく音楽の佇まいであったし、それが和製フランス流のベースに立ちながら、本質的に独学我流で己の言語を紡ぎ出していったというところは、非常によく似ていると思うのだ。

 三善晃と言えば、池ノ内友次郎門下の俊才で、およそ独学とは対極にあると思う人がいるかもしれない。

 でも、音楽を知る人は多く同意してくれると思う。高濱虚子の次男であった作曲教師・池ノ内友次郎門下の「長男」役は、東京帝国大学の美学教授・矢代幸雄の長男であった矢代秋雄(1929-1977、生前は東京芸術大学作曲第一講座教授)であって、矢代さんをこそむしろ泰斗というべきだと思うのだ。

 いや、急いで付け加えるなら、三島由紀夫の親しい友人として、様々な劇音楽も担当している矢代自身、時代の中、非常に特異な、と言うよりほとんど猟奇的と言ってもよいだろう・・・ぎりぎりの表現を追求した厳しい作家だったと思うけれど、例えば「形式」フォルムといったものを考えるとき、整然とした形を最初に形成できた矢代さんを4歳上に持って、三善さんは決して優等生の模範児童として音楽に向き合っていたわけではないのを強く感じる。

 事実「正・半・合」ではないけれど、矢代さんという年長者が「正」としてあるとき、むしろ三善さんは常に「反」の側からアプローチしていたと言ってもよいくらい、例えとして適切か分からないが、相撲を愛した三善さんにお許しを願うなら「技のデパート・舞の海」というような、ウルトラC的な変わり身「猫騙し」などが随所から出てくる、独自な、また極めて高度な音楽を孤高に紡いでいった人生だったと思うのだ。