いきなり別メディアのお話で恐縮なのですが、先週、足かけ7年続けてきた「常識の源流探訪」という連載を休筆しました。個人的には思い入れの深い連載ではあるのです。今回、諸般の事情により休むことになったものですが、実はこの、
「常識の源流探訪」
というタイトル、これは私がつけたものではないのです。当時そのメディアで編集長を務めておられた、本JBpress川嶋諭編集長こそ、「常識の源流探訪」の生みの親であり、また名づけ親でもあるのです。
開高健賞というものを頂き、どこかに連載を、という話になった2006年末、私が考えていたのは、別途相談されていた「CSRの哲学的な基礎付けが平易に分かるような連載を」というリクエストに答える内容で「CSR解体新書」というタイトルを自分ではつけていました。
それを「伊東さんの話をCSRだけに限るのはもったいない、もっと、みんなが常識と思っていることの源流を広範に訪ねていくような連載にしてほしい」
とリクエストして下さって始まったのが「常識の源流探訪」で、最初の1年、50回は「CSR解体新書」をサブタイトルに続けましたが、2年目以降の丸5年は、時事のトピックスから私の持ちネタまで、様々な問題の「当たり前」と思っている部分、つまり知ったつもりで思考停止している内容を、遡行して掘り下げていく姿勢で連載を続けました。
やがて川嶋編集長はJBpressを立ち上げて独立され、この連載を始めさせて頂いたわけですが、開高賞受賞後から頂くようになった、音楽以外のこうした原稿執筆の「初心」を一番共有させて頂いているのが、川嶋編集長その人にほかなりません。
さて、連載というのは、漫然と続けているとマンネリになったりしやすいものです。それを予防するのに、一番有効な方法・・・それが、実は「常識の源流を探訪」する姿勢、つまり、マンネリになるという、パターナリズムを廃して、思考を停止しそうな部分に自ら光を当て、カンフル注射をしていく姿勢だと思うのです。
前回、思いがけず大きな反響を頂きましたので、新年度に合わせ、具体的な題材に沿って「常識化」=肉体化と、その再点検=「源流探訪」について、もう少し踏み込んでみたいと思います。
かけ算の源流探訪?
例えば前回、「丸暗記しなきゃ話にならないもの」の例として「九九」を挙げました・・・それはそうなんです、最初はまず、四の五の言わずにマスターしなければ、話は始まらない。
でも、では丸暗記だけすればいいかと言うと、必ずしもそうではない。その分かれ目は、実はこの「マスター」のプロセスの中にあるのです。これを九九で考えてみましょう。
例えば九九の「2の段」は
2,4,6,8,10,12,14,16,18
これは「偶数」が並んだものですよね。「九九の2の段」という意味だけでなく、実は奇数偶数の偶数という、別の数列としての意味づけがあり得ます。
では「5の段」はどうでしょう?
5,10,15,20,25,30,35,40,45
5を2つ合わせると10ですから、5の偶数倍の段は10,20,30・・・と区切りのよい数字が、その間は「下1桁が5」の数字が並ぶ・・・これも、当たり前と言えば当たり前です。