刑法の團藤重光先生のお話で、非常に心に残っている1つに「儒学」に関する考え方があります。
儒学と言えば、私たちは、高校時代に漢文の授業で習った孔子や孟子に由来する古代中国の哲学思想、封建教学と考えがちです。四書五経、大学とか中庸とか、確かにそういう漢籍も儒学には違いありません。
しかし、團藤先生はもう少し歴史のリアルに踏み込んでお話しになりました。いや、江戸時代の日本では、儒学というのは要するに「朱子学」なのだ、と。そして、この朱子学がいけない、と先生は強調されるのです。
停滞の時代と変革の時代
江戸時代、幕府が奨励した封建支配のための学問、その意味での「儒学」の中心は「朱子学」だった、と團藤先生は言われます。それは、基本的には「前例尊重」で「動かない学」である、とも。
江戸初期、例えば天草の乱のような切支丹弾圧もあり、鎖国政策によって日本が国を閉じ、戦国時代の大きな変化ではなく、毎年毎年、同じことの繰り返しのルーチンで安定成長を目指そうとしていた時期、その「安定」を支える封建教学の模範として「朱子学」が重視された。
しかし、長い中国の歴史の中では、変化の時代に即した儒学もまた存在していた。それが王陽明以来の「陽明学」で、こちらは「変革の時代」の学問という役割を担っていた。
前回、ご紹介した山田方谷のように、江戸時代の儒者の中でも、どちらかと言うと少数派で先鋭的だった陽明学者は、前例を尊重し法の条文を文字通り遵守するような考え方、あるいは古典を字義通りに解釈する「訓詁の学」に「正統」を求めるような朱子学のあり方を批判し「革命」思想を「本当の正統」と考える学問だった。
江戸後期、鎖国中の日本に欧州列強や米国、ロシアなどの船舶が接近し、限られた形ながら「洋学」つまり「蘭学」や「英学」などが導入され始めたとき、そうした「新たなもの」を学問として受け入れる余地を持っていました。
それには、儒学というくくりの中では前例至上主義に陥りやすい「朱子学」ではなく「陽明学」によるところが大きかった。
だから、江戸初期の儒者でも陽明学の中江藤樹の学問は現在見ても新鮮なものがあるし、体制を固めるのに役立った朱子学の林羅山は、幕府の公式学府を作る役割は担ったけれど、今見て参考になるところは少ない。