「戦後、東大生がつまらなくなったのは、天下国家を論じなくなったからだね」
こう言下に仰ったのは、刑法の團藤重光先生です。惜しくも去る6月25日にお亡くなりになられ、晩年ご薫陶を受けさせていただいた1人として、私も葬儀に列させて頂きました。
98歳の天寿を全うされた、と言えるかもしれません。でも、今本当に日本に必要な方が、再び新たなお話をして下さることがなくなってしまった。心から寂しく思っています。その通りの気持ちを、朝日新聞に求められた追悼文に記しました。
でも、哀悼が哀悼に終わってはいけない。そこから未来に繋がっていかねばならない・・・そういう考え方の方でした、團藤先生という方はそういう人でした。
今回は「文系の東大生はどうあるべきだったのか、それがどう変化して、今に至っているか」という観点から、團藤先生のお話を振り返ってみたいと思います。
三島由紀夫の指導教官は極め付きのリベラル
内容に入る以前に、團藤先生という方がどういう人間だったか、いくつか挿話的にお話ししたいと思います。團藤重光先生は1913年11月、山口県で判検事のお父上の元で生まれ、岡山で少年時代を過ごされました。
ご幼少のみぎりから秀才の誉れ高く、2回の飛び級・・・当時はそういう制度がありました・・・を経て、同級生より2~3歳若く東京帝国大学法学部に入学、首席卒業後、ただちに法学部助手に着任されました。1935年、昭和10年のことです。
変な話ですが、僕が團藤先生のお話を何でも素直に伺えた、つまらない個人的な背景を言いますと、亡くなった僕の父も團藤先生に習った可能性があったから、なのです。
アホみたいな話ですみません。僕の父は1925年、大正14年2月生まれで、学徒出陣で戦地に行った、まことに不幸な学年の学生でした。
父の1つ下の学年で團藤先生に習った、例えば平岡という学生は、徴兵検査で甲種にならなかったせいでもあるようですが、戦地に行かないで済んだ。この平岡氏も天下の秀才と知られた人で、東大首席卒業後、一瞬だけ大蔵省(当時)に勤めました。
やがて「作家・三島由紀夫」として活躍するようになります。團藤先生は平岡公威こと三島由紀夫の恩師でもある、ということです。
ちなみに、1学年上で実際に戦地で凄まじい経験・・・シベリア抑留され、強制収容所で4年を過ごしました・・・をしていた父は、三島由紀夫の政治的発言などには常々極めてクールで、市ヶ谷の自衛隊での「自決」も、全く冷静に見ていました。