2012年4月16日、私は福島県南相馬市小高区へ行った。この日、政府が1年ぶりに同地区の封鎖を解除したからだ。許可証なしで取材に入れば逮捕されていた場所に、入れるようになったのだ。行ってみようと思った(2011年9月に封鎖をくぐって中に入った取材を本欄「突入!この目で見てきた原発20キロ圏内(前篇、後篇)」に報告した)。
同地区は、福島第一原子力発電所から半径20キロの立ち入り禁止区域(警戒区域)の北端部にあたる。全域が地震の被害を受け、太平洋岸から内陸部3キロまで津波が到達して、さらに徹底的に破壊された。そして、がれきを片付ける間もなく、同原発からの放射能雲が飛来して、1万5000人いた住民は避難を余儀なくされた。4月22日には住民も立ち入り禁止になった。つまり3.11当日のまま、1年間、地区ごと封印されてしまったのだ。地震・津波被害に原発被害が加わった「三重苦の街」と言うほかない。
足を踏み入れてみると、街には地震でつぶれた建物がそのまま散乱し、津波が運んだ泥の湿原が広がっていた。昨年3.11の直後に福島県や岩手県の沿岸部で見たすさまじい破壊の痕跡がそのまま残っていた。それはまさに「時間が止まった街」だった。
政府が引いた空虚な「国境線」
南相馬市の中心部から自動車で出発し、国道6号線を南に走った。福島第一原発の方向である。右手にJR常磐線・磐城太田駅の表示が見えるあたりで、前回来たとき(3月11日)は警察が検問を敷いていた。道路を封鎖し、通行許可証のない車は入れてくれなかった。検問前で写真を撮影しているだけで、誰何(すいか)され、身分証を出せと言われた。
しかし、そこにはもう何もなかった。普通に車が行き来している、田んぼの中の直線路だ。紺色の警察バンだけが路傍に停車していた。防護服でもない警官が何人か談笑していた。カメラを下げて近づくと、目が合った。会釈すると向こうも会釈した。それだけだった。
私は何度かこの検問に来て、無人になった小高地区の中が一体どうなっているのか、望遠レンズで必死に覗いたことがある。それは韓国と北朝鮮の国境線「板門店」に似ていた。政府が地図の上に人工的に引いた線は、日本の国内に突如出現した国境線だった。
去年9月には、通行許可証を持つ人の車に乗せてもらい、中に入った。政府が引いた線の内外で、線量は何も変わらなかった。住民を被曝から守るために重要なのは原発からの「距離=同心円」ではなく「放射能雲の流れる方向」なのに、相変わらず政府は間違った愚策をそのまま続けていた。それは今も変わらない。その話は本欄「放射性物質に狙い撃ちされた村」でも書いた。