平安時代、日本は死刑を廃止していた・・・といっても、なぜかいまひとつ説得力がない。少なくとも2007年11月、霞が関の法務大臣執務室で團藤重光教授のメッセンジャーボーイとしてこの話をしても、居並ぶ法務省首脳も鳩山邦夫法務大臣も「あーそうですか」といった風情で、蛙の面に小便するほどの手応えも感じられませんでした。

鳩山法相、死刑執行は死に神ではなく「文明」

死神報道に「日本文化」だと反論する鳩山邦夫・元法務大臣〔AFPBB News

 逆に「日本は命をもってあがなう文化」といった根拠を示さない自説で開き直られる始末、どうしたものか、と思いながら法務省から帰ってきたところ、その会合の直後から、のちに「死神」記事が問題になる13人の連続死刑執行が始まったわけでした。

 それにしてもどうして、史実として記録にも残る「平安朝の死刑廃止」がいまいち説得力がなく、根拠不明の「日本文化」が、変にリアルに受け止められるのか。

 調べてみたところ、前回も書いたように「都の朝廷」だけが「怨霊」を恐れて、特に政治犯に対して「死刑廃止」していたのだと知れたわけですが、ではその頃、草の根の日本はどうなっていたのでしょうか?

日本で続いた「二重支配」

 これは日本史を専門にする人には常識で、また大学入試あたりまでの日本史では全く強調されていない事実ですが、大まかに言って江戸幕府が成立するまで、日本は延々「二重支配」の体制が続いていました。 

 江戸幕府以降は「幕藩体制」という別の「二重支配」に変わりますが、古代・中世と明治以降は、端的に言うと「国税」と「地方税」という2つの税金が直接、民衆に課せられていた、という二重体制が続きました・・・というか、21世紀の現在も実は続いているわけですね。

 道路一つとっても市町村・都道府県と国と、実は多重の「シマ」が重なり合っています。私はたまたま母が史学の出身だったので、家の中でそんな話を聞いて育ちましたが、必ずしも知られた話ではないかもしれません。

 古代・中世の二重支配の分かりやすい例を挙げれば、室町時代の「守護」と「地頭」がこれに当たります。 

守護とは何か・・・? → 中央の朝廷から派遣されてくる、一種の「貴族」です。
地頭とは何か・・・? → 地元有力者が中央に認められて権力者となったものです。

 つまり「中央」と「地方」の二重の支配体制です。

 実はこれと同様のことは、現在でも残っています。例えば各地にある税務署を考えれば、霞が関、財務省から若い28歳くらいのキャリアが地方の税務署長として派遣されてきたりしています。

 細かいことを言えばいろいろ違いますが、例えばこういうイメージに近いのが「守護」だとしましょう。