思うに、このように正しい理屈を間違えるようになったのは、一般の習慣がそうさせた結果と言わなければならない。元和元(1615)年(28)に大坂の豊臣家が滅ぶと、徳川家康が天下を統一、武力を止めて使わない時代となった。それ以来、政治の方針はまず孔子の教えから出るようになったようである。

 それ以前の日本は、中国や西洋にもかなりの接触を図ったが、たまたまイエズス会士(29)が、日本に対して恐るべき企てを持っているかのように見えたことがあった。また、キリスト教によって国自体を乗っ取ることを目的とする、といった書面がオランダから来たりもした。

 このため、海外との接触をまったく絶って、わずか長崎の一部分においてのみ貿易を許す一方で、国内を武力で完全に守り、統治したのだ。そして、その武力によって国を治めようとした人が守ろうとしたのが、孔子の教えだった。

 だから儒教の教えにある、「自分を磨き、よき家庭をつくり、国を治め、天下を平和にする」(30)という段取りで統治していくというのが幕府の方針であった。

 このため武士たる者は、「仁(愛を広げる)」「義(みんなのためを考える)」「孝(親に尽くす)」「悌〔てい〕(目上に尽くす)」「忠(良心的である)」「信(信頼を得る)」といった道徳の基本を身につけていった。

 さらには、社会正義のための道徳を掲げて人を治める者は、経済活動などに関係するものではない──言葉を換えれば、「財産をつくれば、仁の徳から背いてしまう。仁の徳を行えば、財産はできない」という孟子の指摘を武士たちは現実に実行していったのだ。

 しかも人を治める側はあくまで消費者なので、生産には従事しないし、人を治め、教え導く者が経済活動を行うのは、その本来の役割に反することだと考えた。いわゆる、「武士は喰わねど高楊枝」という風潮はここを土台に続いていったのだ。

 さらに、人を治める者は人々から養われる存在だと武士たちは信じ、ここから、「人に食べさせてもらうからには、その人のために命を投げ出す。人の楽しみをみずからの楽しみにする者は、人の憂いをみずからの憂いにする」(31)といった行動が、彼らの果たすべき義務だとも考えられていた。

(28)実際に豊臣家が滅んだのは慶長20年。後水尾〔ごみずのお〕天皇によって同年、改元〔かいげん〕された。

(29)イグナティウス・ロヨラが1534年に創立した修道会の司祭。積極的な海外布教で知られ、日本にもフランシスコ・ザビエルが訪れた。

(30)『大学』経一章 修身斉家治国平天下。『大学』の原文は、「身修めて后〔のち〕に家斉〔ととの〕う。家斉って后に国治まる。国治まって后に天下平らかなり」。

(31)句の前後が入れ替わるが、渋沢栄一の従兄弟で、見立て養子となった渋沢平九郎〔へいくろう〕が書き残した文章に同じ言葉がある。この句の前半は『史記』淮陰侯列伝の言葉。後半は『孟子』に似た表現がある。

<連載ラインアップ>
第1回 道徳と富は相反する? 稀代の企業家・渋沢栄一が説く「道徳経済合一」とは
第2回 なぜ道徳の書で「商人の才覚」が学べるのか?渋沢栄一が語る「士魂商才」とは
第3回 自分ではどうにもできない…逆境に立たされた渋沢栄一が考えた「唯一の策」とは?
■第4回 「武士は喰わねど高楊枝」はなぜ誤解なのか?渋沢栄一が諭す「仁の徳」と「財産」を両立させる方法(本稿)


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