写真提供:京セラ
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 20代で京セラを創業、50代で第二電電企画(現KDDI)を設立して通信自由化へ挑戦し、80歳を目前に日本航空の再生に挑んだ稲盛和夫氏。いくつもの企業を劇的に成長・変革し続けてきたイメージのある稲盛氏だが、京セラで長らく稲盛氏のスタッフを務めた鹿児島大学稲盛アカデミー特任教授の粕谷昌志氏は、「大変革」を必要としないことこそが稲盛経営の真髄だという。本連載では粕谷氏が、京セラの転機となる数々のエピソードとともに稲盛流の「経営」と「変革」について解説する。

 第2回は、主力製品を伸ばしながら、代替新製品の開発にも着手する稲盛和夫流の「両利きの経営」に迫る。

シリーズ「稲盛和夫の企業変革史」ラインアップ
第1回 逆転ホームランは狙わない、稲盛和夫が貫いた「負けないチーム」の作り方とは?
■第2回 月産50万本の主力製品があるのに、なぜ代替製品を開発したのか? 若き稲盛和夫が「両利きの経営」を実践した理由(本稿)


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創業の製品「U字ケルシマ」に注力する

 京セラの歴史は、U字ケルシマという製品から始まる。断面がアルファベットのU字型になっていることから命名された、ブラウン管テレビの電子銃を支持するファインセラミック部品である。

 1950年代後半、日本で急速に普及が進んだテレビの基幹部品として、もともとは海外からの輸入に頼っていたが、稲盛和夫が最初に就職した会社で国産化に道をつけた。技術者として稲盛が最初に成し遂げた成果であるとともに、経営者として歩み始める契機ともなった。今回は、この製品から、稲盛の変革的な経営姿勢を読み解いていきたい。

 1956年7月、稲盛は大学を出て就職した碍子(がいし)メーカーの松風(しょうふう)工業で、新しいファインセラミック材料フォルステライトの開発に成功した。また、その材料を使ったテレビのブラウン管用絶縁製品の生産を松下電器グループ(松下、現パナソニックグループ)から受注した。

 当時、銀行管理下にあった会社を、「この製品で立て直す」と意気込む稲盛は、入社して間もない20歳代前半の技術者であったにもかかわらず、この製品を量産する事業部門の長に抜てきされる。つまり、稲盛が技術者はもちろん、経営者として初めて取り組んだ製品が、U字ケルシマなのである。

ブラウン管電子銃を支持する絶縁部品U字ケルシマ

 U字ケルシマは単純な構造をしているが、決して開発、量産は容易ではなかった。U字型をしたファインセラミックに溶融したガラスを充填(じゅうてん)し、一体化させた製品を松下に納品するのだが、ファインセラミックとガラスの熱膨張係数の違いにより、ひびが入ることが続いた。苦心惨憺(さんたん)、ようやくガラスにセラミック粉末を添加することで、熱膨張係数を調節することが可能になり、量産化にめどをつけた。

 このU字ケルシマが貢献し、稲盛が経営する部門は、唯一の黒字部門としてジリ貧の会社の経営を支えた。しかし、ストを繰り返す労働組合からの圧力で稲盛は辛酸をなめ、さらに理不尽な上司の振る舞いから、ついには退社を決意する。その時、稲盛の実績と人物にほれ込んだ支援者が現れ、稲盛は京都セラミック(現京セラ)を設立することになる。