約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?
人の可能性は、志か能力のどちらで決まるのか?
人の可能性は、一体なにで決まるのでしょうか。その志、もしくは才能や能力でしょうか。両方を兼ね備えていることがベストですが、人材の多くは必ずしも2つ共には持っていません。人を抜擢する際にも「志なのか、能力なのか」は悩ましいところです。
私たちがよく思いつくのは、「リーダーが大志を抱き、高い能力の部下を見極めて率いる」構図ではないでしょうか。三国志の曹操、劉備などはその典型かもしれません。曹操は比較的早くから、天下を狙うための右腕(荀彧ら)を採用しましたが、劉備は人生の後半でようやく諸葛亮に出会い花開きます。
志を高く持ち、それを表明することで、能力の高い人物が集まることもあります。曹操は初期の反董卓連合の中でも、積極果敢に戦った武将の一人でした。集まった13名の有力者のほとんどは自軍の損害を嫌い、戦いを避けていたのにです。この勇戦で曹操の名前は天下に知られ、天下の騒乱を治める曹操の志に共感した優秀な人材が曹操の元に集まります。
現代ビジネスでいえば、初期のアップル社やグーグル社などが、壮大気宇な目標を掲げたことで、最優秀の技術者を集めたことに似ています。「テクノロジーで世界を変革する」ことを本気で目指して戦う創業者の志が、超一流の人材を惹きつけたのです。
曹操の右腕、荀彧に見る「能力と志の関係」
志と能力の関係は、時間とともに変化することもあります。その変化は、すばらしい勝利に結びつくこともあれば、悲劇を生み出すこともあるのです。
三国志演義でも活躍する曹操の右腕、荀彧(じゅんいく)。彼は若いころからその才能を認められ「王佐の才」(王者を補佐する者)と呼ばれていました。191年、29歳の時に荀彧は曹操に出会います。荀彧はその前に袁紹にも会いましたが、袁紹では天下の大業はできないと判断して曹操に仕えることにした経緯がありました。
曹操は荀彧に会い、「余の子房である(漢帝国の創始者劉邦を支えた参謀)」と呼び、彼を厚遇します。荀彧も、後漢の献帝を迎えることを曹操に進言。この献策が受け入れられたことで、曹操は皇帝の権威を盾にすることができ、英雄への道を大きく前に進みます。
以降、208年の赤壁の戦いで曹操が大敗するまで、天下を目指す曹操と、王佐の才である荀彧のチームは、「志と能力の絶妙なチーム」として、素晴らしい関係を続けます。
両者の関係にひびが入るのは、212年に曹操が魏公の位につくことを検討したときです。後漢の朝廷への忠誠を大切にすべきだと主張した荀彧と、高い地位を手にすることに意義を感じ始める曹操。曹操は208年の赤壁の敗北以降、荀彧以外の知恵者を模索する動きを加速させており、両者の亀裂はもっと早くからあった可能性もあります。
超一流の参謀である荀彧の想定する理想は、後漢の権威の回復と社会秩序の正常化だったのかもしれません。その意味では、赤壁の前後でリーダーである曹操の志は、名参謀の荀彧の志を大きく超えて始めていた。二人の志には、大きなズレが生じ始めていたのです。
これは、企業のNo.2や幹部が、リーダーである創業者の新しい理想についていけなくなる状態に似ています。その場合、No.2は決して能力がないわけではありません。そうではなく、志の高さが違うことで、リーダーの掲げた新しい目標や新たな世界観が、現実不可能なものか、不適切なものに見えているだけなのです。
しかし、この想い(志)の違いは、リーダーからすればNo.2の中にある足を引っ張る要素でしかありません。リーダー側が、より大きなビジョンを描いているのに、それに社内の優秀な人材が乗ってきてくれない状態。王佐の才といわれた荀彧とその上司である曹操が、決裂した状態がまさにそうだったのです。