そのためには、地域の人との人付き合いが欠かせません。人との付き合いが生じれば、それはある意味で面倒が発生することにもなります。もちろん個人差はありますが、一般論としては、つまり適度な精神的負担を覚悟しないと本当のウェルビーイングにならないと思います。(そのあたりの真実をうまく描いている映画が、少し前の『イントゥ・ザ・ワイルド』だと思います)

少子化も「偏った合理主義」の帰結

 このように、リラックスと緊張(精神的なハリ)、身体と心、道教的志向と儒教的志向、いずれもバランスが大事です。それが歴史の知恵とも言えます。ところが日本の状況を見てみると、同調圧力が高いからなのか、いつも極端に流される傾向があります。戦前から高度成長期にかけては儒教的な、刻苦勉励し、とにかく立身出世を遂げて、という空気が支配的でした。そして現在は、心にも身体にもプレッシャーをかけないよう、あくせくせずに、自分のペースで生きていこう、という考え方が主流になっているように感じます。

 考え方も「偏った合理主義」が浸透しているように思います。少子化は、その偏った合理主義の現れでもあります。子どもを産み育てるのには、時間も、お金も、体力も使わなくてはならない。子どもを持つことがそんなに「負担」ならば、子どもは作らない方がいい。そのように考えている若い人は少なくないはずです。

 かつて子供を作るということは、将来、自分の老後を助けてくれる存在を作るという意味合いもありました。一種の社会保障的な面があったということです。しかし近代国家が発達して、国や自治体による社会保障が充実してくると、子どもに多くを頼る必要もなくなりました。むしろ子供を育てる負担とメリットを勘案すれば、「負担の方が大きいから子供を持つのはやめよう」と考える人が増えるようになってしまったのです。

 2024年度から政府の少子化対策はより充実してきます。政府が新たに支出する金額的には、まさに異次元の少子化対策がスタートします。しかし金銭面での負担が多少軽くなれば若い世代が子どもを作るようになるかというと、おそらくさきほどの偏った合理主義の風潮が消えない限り、そう簡単には子どもは増えないと思います。煎じ詰めれば、究極の少子化対策は「本当のウェルビーイングって何だろう?」という生き方の見直しなのだと思います。