それ以外の大半のニュースは、知っても自分ではどうにもできない無用のニュースか、ただ不快になるだけのニュース、さもなくば、だれそれが第1子の出産を発表、というような、どうでもいいジャンクニュースばかりである。

「ニュース」は絶対になくならないが

 新聞やテレビは、「報道」だ「取材」だと生意気なことをいって、毎日ニュースを量産しているが、いまや「知る権利」も「報道の自由」もたんなる題目でしかないことは、周知の事実になってしまっている。

 かれらの仕事は、「報道」という美名のもと、特権的な仕事とさえみなされていて、当人たちもそれを誇りに思っているようである(ときに傲慢だ)。

 しかしたとえば、テレビで「プーチン大統領、圧勝」というようなニュースを速報で流すとき、あまりにもばかばかしく、つまらん仕事だな、とわたしは思ってしまう。ニュースとして無価値だとわかっていても、かれらは報じなければならないのである。

 けれどこのニュースを、いったいだれに、しかもいち早く、知らせたいのか? そんなことは報道局員は考えない。新聞村(業界)の内輪だけの価値観にしたがって、ただニュースという商品つくり、加工し、出荷しているだけなのだ。

 わたしは、あほらしい仕事をするんじゃないと思うが、しかし「ニュース」は絶対になくならない。これからも、北朝鮮の弾道ミサイルの「可能性があるもの」が発射された、と飽きることなく報じられるだろう。だれも「ニュースの重要性」そのものは、金輪際、疑わないからである。

 しかしニュースはときに有害ではないか。だからわたしは、ただただ不快なだけのニュースやどうでもいいゴミみたいなニュースは、精神の健康のために、こちらから「情報断ち」するのである。

 テレビを見る時間もあきらかに減ってきた。YouTubeで静かな動画を見る時間が増えてきた。それでもわたしは、きっぱりと「テレビ断ち」ができない。

 こんなことでは「スマホ断ち」や「SNS断ち」をすればいいなど、とてもいえない、ということはない。世間との無用で不毛な付き合いにうんざりしている人は、時々、「人断ち」(スマホ断ち、SNS断ち)をしたほうがいいのではないか。