文=難波里奈 撮影=平石順一

「可否道」のマダム・楠木淳子さん。もうひとりのスタッフ・手島敏彦さんと2人で切り盛りする

照明はまさに「スポットライト」

「ここは私の舞台だから」。取材中に聞いたハッとする一言と同時に思い出すのは、永田町の駅からほど近い「可否道」を営む楠木淳子さんの笑顔だ。

半地下の店内は入口から光が入ることで、思いのほか明るい

 ご主人と一緒に市ヶ谷のビルの中の店舗から始め、当時は企業の会議や講演会のための出前注文が多く、1度に200杯を運んだこともあったそう。その後、ビルの建て直しをきっかけに現在の場所へ移転した。こちらを選んだ理由はやはり「出前先の多いところ」だったから。かつては、新宿と柳橋にも支店があったが、バブル崩壊後に街はすっかり静かになってしまい、今では平河町の店だけとなった。

新宿店と柳橋店の写真は店内にあるファイルで見ることができる

 日本で初めて喫茶店が出来たのは1888年4月13日のことで、その「可否茶館」から付けられた店名かと思っていたが、獅子文六の著書『可否道(2013年に『コーヒーと恋愛』として復刊)が由来だそう。

「獅子文六全集」に収録された『可否道』

 カウンター壁面の棚に並ぶ鮮やかなカップたちはすべて有田焼。店の顔のひとつであるといっても過言ではないコーヒーカップを選んだ決め手はなんだったのかと尋ねると、「珈琲豆以外は日本のものを使いたかったから」とのこと。

美しいカップの中から気に入ったもので珈琲を淹れてもらえる

 当時、原宿にあった陶器屋に足を運んで、楠木さんがひとつひとつ選んで集めていったもの。しかし、新宿店と柳橋店の閉店で、使用していたカップたちは平河町店には置ききれなくなってしまった。それらをどうしたかというと、「可否道」で修行した人が開いた店や、今も六本木で営業している「る・ぽーる」に200個ほど譲り渡したそうで、引き続き他の場所で活躍していると聞いて勝手にほっとする。

「可否道ブレンド」は深煎りのしっかりととした味わい

  店の前には高速道路があり、常に車が通っているが、中にいると音も揺れも感じない。地盤が良いのか、東日本大震災のときでもカップは一つも落ちなかったそうだ。

珈琲はペーパードリップで、高いところから注ぐのが特徴。淹れ方は当時、早稲田小劇場近くの喫茶店の方から学んだとか。一度に20gの豆が使用され、注文ごとに店内はいい匂いで満たされる

 冒頭の話に戻るが、楠木さんは演劇の世界を志していたようで、1954年公開の黒澤明氏が監督を務めた映画『七人の侍』にも出演している。その話を受けて「演劇の世界と珈琲の世界に共通点はあるか」と尋ねてみたところ、「どちらもお客さま相手、というところかしらね。ここは私の舞台だから」と返ってきた。

 その言葉に思わず唸って天井を仰ぐと、頭上にはまるでスポットライトのような照明があって楠木さんを照らしていた。また、訪れる人々にもそれぞれの物語があって、楠木さんは毎日違ったショートムービーを見ているようなものではないだろうか、と想像して楽しくなる。

猫グッズが散りばめられた店内。以前はご自身でも飼われていたほど猫が好きだそう

 楠木さんは近々米寿を迎えるという。それを聞いて思わず素っ頓狂な声をあげてしまうほど、目の前のお姿は若く生き生きとしている。

 珈琲そのものに身体を健やかに保つ効能があるのか、それとも喫茶店主という職業柄、日々いろいろな人たちと会話することで脳が活性化するためか、今までに話を聞いてきた店主たちも皆とても元気で、実年齢を聞くと驚いてしまうことが多い。

しっかり焼かれたイギリスパンの食感と海苔とバターの風味がたまらない名物「海苔トースト」。アイスコーヒーは陶器で提供される
アルコール入りの「カフェカルーア」も人気メニューのひとつ

 これからも楠木さんにはお元気に珈琲を淹れていてほしいと願うが、引退されるときが来たときは、勤続30年以上のスタッフである手島さんが継ぐことが決まっているそう。

 ほんの数十分の滞在ではあったが、想像以上に濃厚な話をたくさん伺うことができ、この日しかない最高の舞台を見せてもらった充足感に満たされたひとときだった。

反対側から入ることも可能