文=難波里奈 撮影=平石順一
古くならない美しい空間
走り去る姿を見かけると嬉しい黄色い車体が印象的な西武新宿線。以前より、都立家政駅に頻繁に降り立つようになったのはある店との出会いがきっかけだった。活気のある商店街を少し歩いて小道に逸れると、一見住宅にしか見えないが、上部に「つるや」という看板が掲げられた建物がある。
扉の向こう側に広がっているのは、50年以上の時間を経ても決して古くならない唯一無二の美しい空間。一面はすべて大きな窓になっていて、その奥には日本庭園のような綺麗に整えられた庭。灯篭が置かれ、近くでは二羽の鶴(の置物)が寛いでいる。
白い光を放つ波打つ天井は今までに見たことのない繊細なデザインで、開店当時から使用されているという山形県の天童木工の椅子のゆったりとした座り心地の良さにも一瞬で心奪われてしまう。いわゆる一般的な純喫茶のイメージとは違ったこの空間は、早稲田大学所沢キャンパスや西武ドームなどを設計した建築家でみゆきさんの叔父にあたる池原義郎氏によるものだ。
現在店を守るのは、3代目の渡部みゆきさんと母の幸子さん。昭和3年頃、みゆきさんの祖父母が銀座で喫茶とバー「楓」を始め、後に今の地に移転した。みゆきさんは前職で保育士をされていたこともあり、明るくて誰に対しても気さくな方である。珈琲を飲めるようになったのは大学生の頃だそうだが、祖父の淹れてくれる珈琲がとても好きだったと目を細める。そんな想いもあって、いずれつるやを継ぐことに迷いはなかったという。
珈琲を淹れるときには沸騰したお湯を使うこと、一杯ずつよりも2~3杯ずつ淹れたほうが美味しいこと、とにかくゆっくり穏やかな気持ちを心がけること、など、長い年月の中で重ねた経験はみゆきさんにとっても、つるやを訪れる人たちにとっても宝物だ。
また、ずっと学んでいるという茶道の師匠に「珈琲もお茶もおもてなしの心は同じ」と教わった言葉を心に留めているそう。日々美味しく淹れるコツを聞いてみると「豆に助けられているから」と謙遜されるが、上手く淹れられなかったときは淹れ直すという強いこだわりも持っている。
「人が好きですし、来た人たちに笑顔で帰ってほしい」と取材の間、ずっと穏やかな笑みを浮かべていたみゆきさん。たとえ、朝起きた時に気分が乗らないと思っていても店に立つとスイッチが入るというエピソードからも、この場所を本当に大切にしていることが分かるのだ。
8月末まで営業時間は11:00~14:00と、定時のある会社員には訪問のハードルが少し高かったが、9/1より、夜営業が始まったことも嬉しい報せ。きつね色になるまで3時間ほど炒めたたまねぎとカニ缶の旨味を楽しめるごはんが包まれたオムライスや、喫茶メニューの定番であるナポリタンのほか、夜はクラフトビールやつまみとなる小皿も登場する。
未来の四代目となる夫婦が始めた試みで、日中の光に包まれたつるやとはまた違った表情を見られる。電車に揺られてふらりと訪れて、ビールを一杯、気分がゆるんだその後には珈琲も一杯。そんな風に気持ちをリセットする帰り道、という選択肢が増えたことが嬉しい。