文=難波里奈 撮影=平石順一
「マル」「カク」が飛び交う店内
純喫茶を愛する人たちに、「好きなホットケーキを食べられる店は?」と尋ねてみると、かなりの確率で名前が挙がるお店がある。それは、亀戸と新小岩に挟まれた総武本線の駅、平井にある「ワンモア」。この駅で初めて下車したのはワンモアを目指してきた時だった。それ以降、
昭和46年創業、マスターの福井明さんはかつて制作会社に勤務していて、その外回り中に現在の物件の前を通りかかり、直観でぐっと来てここで自分のお店を持つことを決めたそう。開業までには、渋谷の「ロロ」、池袋の「バンビ」という今は無き喫茶店たちで働き、奥様ともそちらで出会って結婚されたのだとか。
「マル」「カク」と暗号のような言葉が飛び交う店内。地元の常連客から地方の方まで、訪れる人たちの多くが注文するふかふかのホットケーキと、まるい輪切りのレモンが乗ったフレンチトーストがメディアでも頻繁に紹介されていてよく知られているが、福井さんの珈琲への情熱も並々ならぬものであることを、取材でお邪魔するたびに話の端々に感じていた。
「珈琲は答えがないから面白い」
光の射し込む窓の近くで輝く鮮やかな緑色の椅子が並ぶ空間の後ろに置かれている「ラッキー」という名前の立派な焙煎機がその証。
福井さんに「珈琲を焙煎する香りに包まれる日常はさぞかし素敵でしょう?」と尋ねると、返ってきたのは意外な返事だった。「あのいい匂いは焼き始めた最初だけだよ(笑)。近隣のことも考えて、焙煎するのは風のない日を選ぶくらい」と。
また、「美味しい珈琲のためには、焙煎の煙突は短いほうがいい。余計な煙をいち早く外に逃がすことが大切。そうじゃないと豆が煙くさくなってしまうからね」とも教えてくれた。
ワンモアで提供されているブレンドコーヒーにはフレンチローストを使用している。「どんな豆でも焼きすぎたら最終的には同じになってしまう。絵の具だって全部混ぜたら黒くなるでしょう?」と分かりやすい例えで話してくれた通り、絶妙な焼き加減で仕上げるためには熟練した技が必要となる。福井さんは焼きあがった瞬間に豆の劣化が始まると考えているため、3日で売り切ることを目指しているそう。
しみじみと美味しい珈琲を味わいながら、喫茶店を始めた理由を尋ねると、「それはもう珈琲が好きだから。あとは、これ以外にできることがなかった。珈琲は答えがないから面白い」と答えてくれた。
おそらく福井さんにとって、「人生」ともいえる存在であろう珈琲。「新しい店が次々に出来ていく中で、ワンモアはきれいな店ではなく、ひとつひとつ何を食べても美味しいお店でいようと思った」というその誠実な想いは、訪れる人たちに伝わってこれからもずっと愛されていくのだろう。