2月22日、ロシアのプーチン大統領は、中部カザンにて、核兵器を搭載可能なTu-160M超音速戦略爆撃機に試乗した(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

(舛添 要一:国際政治学者)

 2年前の2022年2月24日、ロシア軍がウクライナに侵攻した。戦争は3年目に入るが、停戦の見通しは全く立っていない。この2年間を振り返り、今後を展望する。

ロシア侵略の背景にあった「文明の衝突」

 1989年にベルリンの壁が崩壊すると、3年後の1991年8月24日、ウクライナはソ連邦から独立した。

 ただウクライナの東南部はロシア人も多く住んでおり、ロシアとの関係が深い。そこで、ロシアは強力にテコ入れした。一方、西部や中部は親西欧派が多く、EUへの加盟を求めた。ウクライナの東西で政治的意見も違い、国が二分される状況となった。いわゆる「文明の衝突」である。

 2004年11月の大統領選決選投票では、親露派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチと親西欧派のヴィクトル・ユシチェンコの一騎討ちとなった。選管はヤヌコーヴィチの当選としたが、ユシチェンコ陣営は選挙に不正があったとして、首都キエフを中心に大規模なゼネスト、デモなどの抗議活動を行った。EUなどの仲介で12月に再投票が行われ、ユシチェンコが勝利し、大統領となった。これが「オレンジ革命」である。

 しかし、ユシチェンコ与党の「我らのウクライナ」は、2006年6月の最高議会の選挙で惨敗した。その後、政権内部の抗争で、2010年の大統領選挙では、ティモシェンコと対決したヤヌコーヴィチが当選するという結果になった。

 2013年、プーチンの圧力で、親露派のヤヌコーヴィチはEUとの政治・貿易協定の調印を見送り、ロシアやその経済圏との協力を強化しようとした。すると、これに反発した親西欧派が抗議活動を展開し、騒動は拡大して収拾がつかなくなり、2014年2月22日にヤヌコーヴィチは国外に逃亡した。

2016年11月、亡命先のロシアで記者会見するウクライナの元大統領のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ氏(写真:AP/アフロ)