「ヒップホップ界の伝説」2パック(右)。ジャネット・ジャクソン(左)の主演映画『ポエティック・ジャスティス/愛するということ』に出演した際の写真。1992年撮影(写真:Eli Reed/Magnum Photos/アフロ)

(山田敏弘・国際ジャーナリスト)

 ヒップホップ界の伝説――そう呼ばれてきたアメリカ人ラッパーの象徴である2パック(本名:トゥパック・アマル・シャクール)。2017年にはソロのラッパーとしては初めて「ロックの殿堂」入りを果たしたラッパーだが、1996年に25歳の若さで凶弾に倒れた。

 9月29日、27年の時を経て、犯人が逮捕された。この伝説のラッパー射殺事件の裏には何があったのか。

西海岸と東海岸、それぞれのヒップホップシーン

「662」。この数字は、1990年代のアメリカで起こった黒人同士の“戦争”の根幹をなす象徴的なナンバーだ。その数字の示すものが、黒人ラップ文化に暗い影を落としていた。

 西海岸・カリフォルニアの「デス・ロウ・レコーズ」(以下、デス・ロウ)と、東海岸・ニューヨークの「バッド・ボーイ・エンターテインメント」(以下、バッド・ボーイ)。それぞれが世界のラップシーンをリードするラッパーを擁し、セールスを競い合った。それがいつの間にか、西海岸と東海岸のどちらが本物のラップか、という論争に発展していく。

 1990年代半ばまでに、西のデス・ロウはすでにラップ業界を牛耳っていた。創立者である、シュグ・ナイトはアメリカの西側から音楽を配信し、大ヒットを記録していた。ラップ分野では、90年代に売り上げ史上第1位をマークしたほどだ。

 一方、東のバッド・ボーイは、今ではミュージシャンとしても名を馳せたショーン・コムズ(別名:P・ディディ、現在の名前は、Diddy=ディディ)によって立ち上げられた。約170キロの巨漢ラッパー、ノトーリアス・B.I.G.はファーストアルバム「Ready to Die」を引っさげ、ヒットチャートを賑わせていた。彼は、プロデューサーでもあるディディと共にビッグ・ボーイの顔となっていた。

ノトーリアスB.I.G.(InSapphoWeTrust, CC BY-SA 2.0, ウィキメディア・コモンズ経由で )